○司馬遼ブームが個人的に到来している

私的司馬遼ブームのなか私はあるが、そもそもの発端はデジオである。
デジオとは、ネットを用いた素人によるラジオ局ごっこを指す。冗談のようであるが、いまや膨大な数のデジオ局が存在する。私はそのいくつかのデジオを愛聴している。
友人でもない、あかの他人の素人喋りに接するにつけ、テレビ・ラジオで活躍するアナウサー、芸人らの喋りのテクニックの確かさに今更ながら驚く。つまりデジオを通じ、話芸というものの奥深さを再認識したということ。
私の司馬遼への関心はその延長上にある。
内容よりそのスタイルが興味深い。その意味において、司馬遼はお喋りおじさんである。
そう考えると大変合点がゆく。司馬遼の下手クソな小説は小説でなく、話芸を書き起こしたものと捉え直すと、その下手クソ小説のなかに刮目すべき可能性がため込まれていることに気付くわけである。
もし私が文学部の学生で司馬遼について気の利いた卒論を書くとすれば、ここに着目する他ない。
題目は「司馬遼文学の構造、「余話」にみる日本近代小説がそぎ落とした口承性」になるだろう。