吉田豪の業

僕はこんな本を読んでしまった。『刺されたいのか 主役はこの俺だ』書評より引用。
http://web.archive.org/web/20021002010022/http://bunshun.topica.ne.jp/shut/shut.htm

松田聖子だけで棚を丸々一段(奥にもあるので二列分)も占拠してたりとタレント本だけでとんでもないスペースを割いているため、店に行くと紙袋四つぐらい買い込むこと確実な仙台の名店・萬葉堂書店。

アーカイブという語が浮かぶ。が、なんのアーカイブなのか。
ナイスな店だと思うが、俺は萬葉堂書店に行きたいとは思わない。なんの霊感もえられず来店記念にガッツ石松本など買うテイタラク、惨敗の予感のゆえではない。
端的にいえば、萬葉堂書店には何か危うい気配が充満ているように直感するからだ。
とにかく、吉田豪に腕力がある。
著書や対談のなかで飛び出す芸能人の語るメッセージは、事務所サイドや後援会・ファンクラブなどとの兼ね合いや読者へリップサービスも混じり、得てして「オフクロ、産んでくれてありがとう」的な無難な類型化やその類型化を嫌うゆえのフィクショナルな「俺節」になりがちである。
当然吉田は本のなかのメッセージをすべて鵜呑みはしない。吉田は彼らの人生のあゆみに着目し、虚々実々なテクストから著作に込められた、ありうべきメッセージを探り出す。だから、伝えたいメッセージより伝えたいメッセージを語るさいつい口を滑らせたエピソードこそ、吉田にとっての事実だといえる。
つまり、吉田の「読み替える」姿勢は、些末なものこそ重要な証拠であるという気鋭の歴史学者カルロ・ギンズブルグの作法まんまなわけだ。スゴイ。
希代のインタビューアとしてよい仕事をこなす吉田だが、相手が好んで語ろうとすることよりもそれらを語るために語ってしまう周辺エピソードが大切な吉田だからこそ、相手にとっても得難い聴き手になる。しかも吉田はその些末なおしゃべりに感動するバックボーンを備えている。資質と資料収集という両方の意味で。
おそらく、仙台萬葉堂は彼の外部脳のなのだろう。
読み替える金狼、吉田豪はすてきな狼だ。