○日本的ジャーナリズム、違ったクオリティのプロ

finalventの日記より引用。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050324#1111650103

だけど、日本の場合、なんか真理がまずあってそこに突撃、死んでも悔いなし特攻!みたいな感じで。ま、欧米などでもそいうイデオロギー先にありきというのはあるけど、彼らはもっと動物的に動く。先日のウクライナ選挙でも、現地突撃してみたら、あれれれなんでこんなに糞ポーランド勢力がいるというのを見ちゃう。見ると、実態が知りたいということになる。イデオロギーなんか糞、なんだ、この事態はというのに食いつく。

 そういうのがあまり日本でないような気がする。というか、日本人のジャーナリストって知識人とか文化人の悪いパロディみたいな感じがする。たぶん、欧米のジャーナリストって、知識人とか文化人とか内心のところで屁でもないと思っていると思う。

 ま、欧米はすごい日本はダメという結論でもないのだが、なんというか、日本のジャーナリズムにおけるプロっていうのは、ちょっと違ったクオリティのプロなんじゃないかとは思う。

違ったクオリティのプロ。北田暁大がいう日本的スノビズムのことかな。あるいは、堀江社長のいうフィルタリングの術か。
ジャーナリズムは、能書きでなくまず現地に飛ぶその嗅覚といえないか。日本の既存メディアやそれにぶら下がっている自称ジャーナリスト諸君はその機動魂が確かにたりないようだ。
いま起こっている事件より過去の事件の資料整理に何故か血が踊る。
というか、フジが堤西武を報道するのは、記者クラブで得られた情報だからで、そこにフジ・サンケイの今おかれた立場でそれをを報道する滑稽さを自己検証する思考は完全にオフになっている。嗤うなというのが無理なハナシだ。
週刊ポストかつての十八番角界疑惑や週刊文春の最近の学会批判好きもなぜかカネのや裏社会の影が当然のようにちらつく。
これは報道でなく、妄想でないのか。
かくして、高性能のカメラは芸能人のゴシップを”フライデー”するものでしかない。事実だがたいそうクダラナイ事実。
あるいは、堤帝国の闇だか病みをアノ手この手のエピソードをや血や女やカネの物語に紡ぐことに、なにか本質的なものがあるかのように熱狂する。
言いたくないがバカみたい。