○義男
不定形でいるための態度 前編
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小説しか読んでこなかった読者の中には、意外感を覚えた人も少なくなかったのではないでしょうか。そこで、インタビューのまず冒頭にお伺いしましょう。日本語論や日本の戦後といったテーマを書こうとされた契機などがあったのでしょうか?

片岡義男の角川文庫の赤い背表紙の大群の読み物を「小説」括るのことは、大変窮屈な読み方に思う。だいたい、彼自体何が小説で何がコラムか区別してないフシがある。
「小説を書いてください」と出版社から注文された場合、片岡義男は先日スーパーマーケットでバナナの棚脇ですれ違った女に自分を同調させ、彼女から見えるであるだろう風景と生活と彼女が克服するささいな試練を綴り、「ショーセツ、書き上げました」と担当の編集者に渡すだろうし、「エッセーを書いてください」という依頼に対しては、「バナナと彼女」タイトルで、これまた先日スーパーマーケットでバナナの棚脇ですれ違った女についての妄想を彼なりの配慮とユーモアを交えて綴るのだ。
つまり、依頼されたものついて、一切対応せずにその注文をこなすというのが片岡義男の作家としてのスタイルではないだろうか。それはバカではない。バカではできない。
いい歳のオッサンをつかまえていうのも何だが、片岡義男の作法とは、まず発注ありきだということ。そして彼は注文をうけた小説なりエッセーなり時評なりに、彼のイマジネーションをそれらしく仕立てあげて差し出すわけだ。だから彼の著作、小説はわずかにエッセー寄りで、エッセーはユーモアに意見が隠れ、時評は個性的な意見に彩られるという具合に、つねに形式と異質の要素を孕み、そのじつ写生文であるというバランスの上にある。