○談志はえらい?その3

以前村上春樹のうなぎと読者の自身の三者会談という小説作法にふれた。
http://d.hatena.ne.jp/yasulog/20050129#p1
http://d.hatena.ne.jp/yasulog/20050127#p2

<うなぎ>とはおそらく霊感の喩えだが、ヒラメキ風のものでなく、持続的ものと考える。
俺が再三談志の例をひくのは、ライブ空間のほうが、うなぎの本質がみえるように思うから。とにかく談志はうなぎなるもの、持続的な霊感を大切にする噺家であるようだ。
彼が名人であるかどうかは判らないが、落語を演じることにこの上なく意識的であることは間違いない。
ところで、ライブ空間でも取り立てて<うなぎ>を必要としない場合もある。
紀宮は日本舞踊をたしなむようだが、その発表会はその典型と考えられる。彼女はお師匠さんから教わったことと練習の成果を発表会で披露するだけで良い。紀宮が観客の熱気から何かを察知し、自らの舞踊の所作を当意即妙にアレンジするようなこと(=ライブパフォーマンス)は誰(観客のみでなくさーや自身も)も期待していない。
要するにその場に観客と演者である紀宮との間にインタラクティブな関係ない。
おそらく、明大マンドリン倶楽部の演奏会に対する違和感も、会の趣旨が発表会であってライブパフォーマンスでないためである。簡単にいえば、マンドリン倶楽部の演奏会に出かける聴衆の魂胆は、マンドリンによる音楽的パフォーマンスを期待しているのではなく、自分の身内のマンドリンを弾く様を確認することなのだ。
むろん、噺家のなかにも紀宮日舞発表会の調子の者もいる。というか、<うなぎ>不在の発表会がいけしゃあしゃあと、ライブ顔をしていることが多々あるように見受けられる。
裏替えせば、<うなぎ>を意識し、かつ呼び込める演者はむしろ稀な存在なのかもしれない。