猪瀬直樹「ペルソナ」読了
(文春文庫 ISBN:4167431092)

四十代の男が割腹自殺を遂げたとき、デッカいはてなマークが日本列島上に浮かんでいたことは想像に難くない。その四十男はバカじゃなかった。その証拠に彼の小説は機知に富み、しかもブンガク的な伝統も咀嚼し、当世風にアレンジを施す気配りも心得ていた。三島は日常を嫌悪した。明日が今日と同質の、明後日もその翌日も今日を引き伸ばしただけの日常を三島は嫌った。
どこまでも続く日常に戦慄する気分は、どこか懐かしく、また目を背けたくなるものだ。実際、私が上京しよう思ったのは、地方都市のアーケード街をあと30年も歩くかもれない未来の己を人波に幻視したからだった。むろん上京しても日常はついて回った。日常は、いまこうやって私が文章を綴っているあいだも私の横によりそい続けている。
三島のように腹をさけない一般大衆は、歳とともに日常に譲歩する。課長、正社員、時給1250円。彼等はそれなりの肩書きと持ち金の保全が人生の目的になる。すると、若いときあんなに嫌いだった日常は、大日如来のよう柔和な顔で迎えてくれる。年老いた一般大衆は思う。嗚呼俺は間違っていた。日常って全然良いヤツじゃないか、と。
否、それが日常って野郎の手口なのだ!永遠に循環するように見え、実は問題を先送りしているだけだ。その先送りが人の一生よりはるかに長いせいで、見過ごされてるんだ。諸君!目を覚ませ、諸君は日常という布団と枕で惰眠を貪り、人生という甘美な夢をみているだけなんだ。なにが課長だ!何がペナントレース優勝だ!なにが100万部突破だ!全て日常のしくんだペテンだ。騙されんなぁぁぁぁ。
役所や会社に出勤してれば給料が貰える。テレビ、ステレオ、冷蔵庫、二段ベッド。百貨店やスーパーマーケットには買いたい商品やステータス的な商品が並んでいる。多少高くても月賦を組めばよい。夏冬のボーナスがそれを可能にした。月賦!それは日常の勝利の合い言葉。だから、日常的幸福(降伏?)に慣れ親しみだした多くの日本人には、三島の危機感は何のことやらさっぱり分からなかった。
終わりなき日常を下支えしているもの、それが三島が宣戦布告した敵だ。猪瀬はいう。近代日本の官僚システムこそ日常の正体だと。宮台的にいうなら、それは全ての部品が入れ替え可能であるシステムを指すのではないか。政治家も官僚も会社も、そして天皇も。すべてが入れ替え可能な記号にすり替えることこそ近代日本の官僚システムが自律的に回転したなれの果てだった。
腹を切ることは痛そうだが、それ以上にイタイ。それはリストカットの比じゃないくらいにイタさがある。三島はそのイタさをくそ真面目に演じた。日常にうつつを抜かした自衛官らの前で「一人ごっつう」を演ってみせた。ウケずに困惑が広がった。
祖父、父、息子の三代に渡って高級官僚だった。「ペルソナ」は、近代官僚システムと三島家三代の合戦絵巻だ。シンガリを努めた息子が、もっともバカバカしくもの悲しかった。