長嶋ジャパン、銅メダルに思う。

柔道や競泳の予想以上の頑張りや、体操ニッポンの復活、奇妙な雄叫びで話題の卓球少女など、日本マスコミ的にはアテネ五輪は上出来なイベントとして記憶されそうだ。
一等になった者は、金のメダルが貰えるという振れ込みのこのイベントは、選手個々のその後の人生を大きく左右する力を持ち始めている。それゆえに、参加選手やその関係スタッフのモチベーションは記録への飽くなき挑戦や切磋琢磨による技の向上ではなく、如何に相手を出し抜き、あるいはこっそり足を引っ張り、こちらへメダルをたぐり寄せるかという権謀術数にシフトしてきているのではいかと思う。ドーピングに対する反応、その合意形成からメダル争奪戦は始まっているわけだ。
マスコミはこうした下世話なウラ話を隠蔽し、ワールドカップ世界陸上と差別化を図るために、金メダル報道に余念がない。ジャーナリズムは本当末期的な危機にあるようだ。
長嶋ジャパンとは何なのかと言えば、それは職業野球の選手集団だが、彼等の結束が「長嶋さんのため!そして彼が愛してやまない日本の野球界の将来のために!」というセンチメンタルな気分によってあることが最大の特徴だ。意気に感じる、大いに結構なことだが、それが通用するのはうちうちでのことだ。日頃金を貰って野球をやってるが上に彼等のこうしたシンパシーは始末が悪い。
オリエンタルなイメージ増幅に余念のない日本のシンクロ水泳陣より今日的なニッポンを象徴的に体現したチームが長嶋ジャパンと云っても過言ではないだろう。
長嶋が愛する日本野球の将来のため!というお題目は選手内に自発的に形成された得難い目的ではない。アメリメジャーリーグの世界市場への進出が極東の野球市場を席巻した結果、生じた「どうしよう」という消極的な反応の延長でしかない。
だから長嶋ジャパンは、マスコミの金メダル神話の信奉者であり、アメリカのグローバリゼーションの被害者でもあるわけだ。可哀想と同情している場合ではない。なぜなら長嶋ジャパンは我々日本人の行く末を暗示しているからだ。
日本球界に今必要なのはセンチメンタルな矜持ではなく、算盤だ。日本野球の観客を増やすために五輪でどのようなアピールが必要なのか、(五輪は球界に必要ないという選択肢も含め)という戦略ではないか?こうした算盤のうえで、長嶋や金メダルの意味や価値を再点検することが可能になる。