○内なるナベツネ

渡辺恒雄、通称ナベツネ。読売新聞の首領だ。読売ジャイアンツへの人事や戦術に口を出してきた。突如オーナーを辞任したが、彼にとって野球は新聞拡販の手段でしかないことは明々白々だった。野球ファンの多くが彼をよく思わないのは、ナベツネの言動が野球や選手を冒涜したものに映ったからだろう。
だから会社のマネージメントという立場からすると、彼の言動はそう簡単に非難されるものではないとも言える。自分の仕事を想起したとき、己の内にナベツネ的な打算があることは、誰しも思い当たるのではないか?
テレビでナベツネにタカる記者集団を見ているとトンデモない茶番を見せられいるという違和感と同時に、記者の必死な形相や糾弾じみた声から本気(マジ)ぶり察せられ困惑してしまう。
父ちゃん母ちゃん、俺東京で張り付いて頑張っているよってテレビを通じた故郷への錦飾りか?記名記事など本格的に導入すると大変だ。
原因究明という行為には、行為者にある種ストイックな陶酔を約束する。これは自戒だが、原監督の解任、有望選手への栄養費提供や1リーグ構想など全ての元凶をナベツネになすり付けるのは、ジャーナリズムではなく、漫画のなかのジャーナリズムだ。分かりやすいが、真実とはそう単純ではないはず。
ナベツネもいずれ死ぬ。しかしナベツネが死んでもまたぞろ新たなナベツネが生まれるのはほぼ間違いない。いまナベツネぶら下がり組のなかから、次世代のナベツネが飛び出してる可能性すらある(あの本気(マジ)ぶりはそういう予感を抱かさせる)。
内なるナベツネを見つめるところからジャーナリズムは出発すべきだ。