○「ロスト・イン・トランスレーション」を観てきた友人はそのトウキョー・イメージに戸惑っていた。

ロスト・イン・トランスレーション」を観てきた友人と映画の感想について話す。
彼はどうもそのトウキョー・イメージが合点がゆかないもよう。この映画について、描かれたトウキョーに馴染めないという意見はネットで読んでいたので、まそういう見方もあるのかというのが私の立場。けれど、そんなに滅茶滅茶ヘンなニッポンってわけじゃないと思うのだが。
日本人でもああいう風に東京がトーキョーに見える場合もあると経験的に思う。沖縄から上京してきたばかりの私の目には、東京はまさに異国だった。田舎からの上京してきたばかり者とガイジン観光客のトウキョー・イメージはかなり共通しているのではないか。
逆に言えば、東京生活者は己の必要に応じて、自分なりの東京地図を見ているのだ。ガイジン観光客の目には幻想的に映るパチンコ屋や漢字のネオンサイン、寺の鐘音も日常生活をおくる場合にはいらない情報として、東京生活者は無意識に捨て去っている。
観光客目線と生活者目線。「ロスト・イン・トランスレーション」におけるトーキョ−と己の東京間ギャップを感じるのはある意味普通のことなのかも。
巨大都市東京の生活者は巨大都市東京を縦横無尽に闊歩わけはなく、各々の生活圏としての東京(私のばあい、池袋と成増)で晩飯を食べたり、レンタルビデオを返却したりといった日常を送っているのだ。その目線をガイジン女監督に期待するのはどだい無理な相談だ。