川合康三著「中国の自伝文学」を読む
創文社 ISBN:442319421X

オトナ語というのが話題になった。オトナ語とは何か?私見では、オトナ語には新聞の経済面を賑やわすオープンソースキャッシュフロー三位一体の改革などというキーワードと読者であるサラリーマンの日常業務との間に横たわるギャップを埋める緩衝材という側面がある。だからオトナ語は、取引先との間や部署間、あるいは同僚の間で交わされる符丁である。
オトナ語、ギョーカイ用語というのは、方言として微妙なニュアンスを伝達する点で優れている。しかしその反面、それが方言と認識されてないとき、オトナ語はその本来の役割をなさず、混乱や不快を招く。
先日、友人とオトナ語について意見を交わした際、受話器を肩にはさんで両手を自由にする仕草、本来はメモをとる等の準備行動なのだが、アレが電話に出るときの姿勢として固定化された人を見かけると、友人が告げた。オトナ語は言葉だけでなく、仕草やポーズのなかにも潜むという認識は実に示唆に富む。
オトナ語は、会社やその業界に生きるサラリーマンが身につけた方言である。そこには個々の会社おける知恵や知識が蓄積されている。使い方さえ間違わなければ、有効である。
唐突だが、森岡稔氏のhpより引用。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/9531/paper.html

プラトンが叙述した暗闇の洞窟のたとえは、この考えをうまく表したものです。人間は、生まれてからずっと暗闇の地中の洞窟にとらわれた囚人であるとします。人間はそのような境遇にいるので、何を知ることもできません。人間は、この洞窟のなかでは前方しか見ることができないように手足や首をきつく縛られています。そこで、火に事物が照らされて、暗闇の洞窟の奥の壁上に人形劇のような影絵の世界が美しく映し出されたとするならば、人間はそれを真実だと思ってしまいます。それが、ミメーシスなのです

ミメーシスとは、ふつう模倣と訳されるが、受け継がれてきた蓄積資源と解する。
ちょっと乱暴かもしれないが、プラトンの批判するミメーシスっていうのは、西洋人にとっての、オトナ語のことじゃないかと思う。
川合康三の「中国の自伝文学」の魂胆は、自伝という形式(=エクリチュール)の欧米と中国のそれを比較検討し、中国文学における、書く側の自己認識の在り方(性質)と、その変遷を診るというもの。
川合は、本を書くにあたったキッカケ動機の自序に中国の自伝の発露をみる、また「○○先生伝」形式の架空の人物伝に書き手の理想の自己を流し込む「自伝」がある報告する。相当苦しい思った。しかし「苦しいな」と思った私はよくよく考えてみれば、西欧の自伝定義を盲目的に信じているだけだ。苦しいはずの、中国の自伝というエクリチュールもまた、それ相応の歴史背景を持っている。
川合の真の野望は、明治以降の欧化教育でもたらされた、文学のオトナ語空間に一撃をくわえることあると思う。