○余話が取り繕うもの

やぎコラム (2004.4.29)より引用。

企業がなにか不祥事をおこして CM を自粛すると、その枠は公共広告機構(JARO)の CM が流れる、と聞いたことがある。 JARO の CM は立派なことを言ってるけれど、あれが流れるときはなんかあったときなのだ。

密室の会議室でおならした人がやたら饒舌に語りだすのに似ている。ある意味、逆ギレだ。


司馬遼の「余話であるが」の蘊蓄披露。
自分の小説にしゃしゃり出で来る、あの饒舌ぶりも、なんかやらかしたときにちがいない。