○「トマソン」、無用の長物化した選球眼
マルセル・デュシャンの作品「泉」は間違いなく便器だった。私見では美術館側が好んで収集する対象、その選定基準へのナイーブな異議申し立てとして「泉」は制作された。マルセル・デュシャン。彼がロックスターのような地位をいまだに占めるのは、猛烈で繊細な彼の抗議としての彼の作品の意図を現時点においても美術館サイドは簡単に忘却してしまうからだ。別の言い方をすれば、美術館とは、作品を「資料」として対象を収集する装置でしかない。そのコレクションに歴史的な価値、骨董的な価値は、あるだろう。けどれ作品のみずみずしさを美術館は永遠に取り逃がす。
昨日、路上観察学会が無用の長物としての建築物に「トマソン」を発見するのは、民藝運動への反撃と書いた。その反撃とは民藝運動が対象の収集、保存イデオロギーを帯びていくことに対する反撃だ。民藝は「用の美」と「資料」の二枚舌だ。
かくして、路上観察学会はリアルな美を探し始める。発見される場所は「路上」。「(美術館の)外へ」という着想は確実にデュシャン的感性に依っている。けれども、無用の長物的建造物を「トマソン」と名付けた刹那、路上学会員とそのシンパそれぞれの審美眼は急速に「美術館」化した。最悪。