○昨日のつづき

労働とは何か?的な問題が不景気なせいで先祖帰り的にランクインした感じの昨今なワケで、渋谷さんのハナシを聞きてて、ふと、じゃどうして資本に取り込まれたらいけないの?的な素朴な疑問が脳裏をよぎったりする。
けどこの素朴な疑問は、資本と適当に折り合いをつけそれなりに対価を得て発泡酒で晩酌するの幸せなんだよなぁ的大人的な人生観(大人イデオロギー)が潜んでいる。
大人的な人生観とは別の言い方をすれば、大人の動物化宣言のことだ。

金子勝がお経のように唱えるセイフティーネットの問題を人文的な観点から検証吟味するっていうのが渋谷さんのスタンスなんだと思う。そんな文脈でイタリアのアウトノミアの労働観を引き合いだしたというあんばい。

日本で南瓜プリンがプチヒットを飛ばしたとき、日本の商社が南瓜をトンガで供給する仕組みを作った過程とその後を取材したテレビ番組を記憶している。ま、当時辺見庸の「もの食う人々」が話題になっていた時期なので、テレビ的にはあやかり商法だったんだろう。
悲惨なのは、南瓜プリンはティラミスやナタデココのようなブーム的な盛り上がりのないままフェードアウトしたため、トンガの南瓜農民は、翌年から南瓜を買いたたかれ、にっちもさっちも行かない状況になってしまっいたこと。
貧乏から抜けだそうとして資本に身をゆだね、余計に貧乏になってしまったというハナシ。

じゃ、どうして資本に取り込まれたらいけないの?という一見素朴そうな疑問は、全然疑問でなく、夜郎自大な大人の開き直りの、みずみずしい感受性と他者を想像する力の栄養失調状態の戯言でしかない。