○宮台×東@都立大のログ
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11月3日の両氏の対談の私の雑感。

この対談の「公共財=コモンズ」っていうのは「動物化するポストモダン」でいうところの「大きな物語」ってことだろうね。
たとえば、インターネット(公共財)上で、ある一企業のOSが入ってないパソコン(Apple社のMacとか)が実行することができないサービスは公共性を反していることになる。
これに対するユーザー側の対応は2つ。
1つは、公共財に反するサービスの停止、改善をその企業に訴え,インターネットの公共性の回復をはかろうとするスタンス。
もう一つは、「そのOSさえあれば、もっと便利なんでしょ」と自己の利便性を追求を優先させ、インターネットの公共性を顧みないという立場。
宮台がフリーライド、ただ乗り野郎と呼ぶのは後者のことを指すんだろう。
東的にはそれは「動物化」のなせるワザ、ってことか。

この辺では彼等は問題を共有しているように思えるが、公共材に対するイメージと対処方って点で、ズレがあるように思える。

宮台の発言:

日本は「今は便利だけど、もっと便利に」という国。「得になるから参加しよう」という考え方が「疎外」につながる、という認識が日本にはない。

宮台のいう「疎外」とは、勝ち馬に乗っている俺は大丈夫的他者(Macユーザー)への想像力を欠いているってことに限定されず、自身がずっと勝ち馬に乗ってられると思い込める鈍感さ、脳天気さの意味だな。
自己の利便性の追求するあまり、自分の依て立つ地盤(選択肢)まで喰い尽くしてしまう目先の快楽に反射神経的に飛びつくスタイルつーかな。
ま、脳天気さはある意味、己の豊穣な未来をむしゃむっしゃ喰ってるんのかも。
だから、彼がいきなり歴史感覚というとき、それは西部的な「国民の歴史」の必要性を主張しているのではなく、インターネットが何故我々は便利だと思ったか?これはスゴイことだと思ったのか?を根源的(大袈裟かね?)に想像する態度/センスの意味だと思う。
それは何が我々の公共材にとって不当で、どうある状態が正当かを認識でき感覚ってことだろうな。

対して東はどうか?
彼はかなり冷めている。というか呆然としているように見える。
だって、

技術を駆使すれば、リバタリアン的な意味での再分配が完全に行えるようになっている。

から。
ちょっと二の句が継げない感じ。
ある程度の動物化はさけれられないという諦念(第三の道、ブレア政権)は宮台にもあるはず。
けれど、東は、飛ぶ鳥落とす勢い爆進する動物化に諦めを通りこし、もはや呆然と立ち尽くすしかないと感じてるんだろうな。