京極夏彦著「陰摩羅鬼の瑕」読了。

*注意
以下の雑感は、「事件」の真相を擦ったりしている部分のがあるので、未読の方の豊かな読書ライフを損なう恐れがあります。


確かに、推理小説っていうのは、探偵が蘊蓄を語ったりすることが往々にしてあるし、そういう衒学的なトコロが魅力だったりする。
ただ、推理小説における蘊蓄の役割は事件推理のための予備知識であり、そのため、蘊蓄は事件解決に奉仕しなくてはならない。
京極堂は、まさにそういった蘊蓄の力で事件をちょう伏するスタイルを採っている。最新作の「陰摩羅鬼の瑕」もその例にもれない。

ところで、人文系の学問とは概ねテキスト読解である。
儒学の場合、四書五経がテキストにあたる。
儒者儒教的な理想を四書五経のなかに読み解いていくのだ。
孔子はこんな場合にこんなコトを言った。
で、その意味はカクカクシカジカだと私は考える。
いやいや、あんたの解釈には賛成しかねるな。
孔子はあの時にはああ言う風にも言っているだろ?
だから、この場合、こう言ったのは○○××のとアタシは解するな。
という感じで解釈の「精度」を高めていくのだ。

注意する点は、現代の儒学研究者と日本の近世の儒者とは四書五経に対するアプローチは当然だが違うということだ。
後者が上記のようなテキストの解釈に従事していたのに対し、前者は儒者の解釈を相対化し、今日的な興味で彼等と彼等の思考/思想を吟味するというスタンスを採用する。
中盤で京極堂と柴のあいだで繰り広げられる蘊蓄は、まさに儒学研究者(たんなる物好き?)としての立場の物言いであり、とりわけ京極堂の展開する、普及のためには坊主姿も厭わなかったとする羅山評価は興味深い。
そして、それが彼の事件解決の骨子でもあるわけだ。

つまり、京極堂は我々は仏教だと思っているのは、実は仏教の格好をした儒教だと推断しているのだ。
別のいい方をすれば、我々は羅山的な儒学をそれとは知らずに受け入れているということ。
ゆえに「陰摩羅鬼の瑕」は羅山的な儒学(こっち側)とそうでない、向こ側の事象の把握(読解)の差異を巡るお話で、こっち側に立つならば、内的な整合性はあるものの、向こうサイドの事象の読解は誤り(論理の瑕)があるってことになる。
ということは、執事は向こう側の人(=家族)だったんだなぁ。

ま、どんな理由(事件解決ため)であれ、思いっきり蘊蓄を披露する京極堂は、やっぱり変。
それにしても、林羅山とはなぁ。目をつけどころはさすが。

司馬遼モデルの探偵小説ってどお?
ワトソン役は池島信平

参考;
陰摩羅鬼の瑕」感想リンク.
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kyogoku/review.htm