ウラジーミル・ナボコフ「ディフェンス」読了。
(河出書房新社 ISBN:9784309204994)

学校ではおとなしく目立たない子供のルージン。彼はひょんなことからチェスと出会い、一挙にその才能を開花させる。無敵の彼は、どんどん大人の対局者を倒し、やがて父親とで国内巡業に出る。「チェスの神童」ルージンの誕生。しかしながら、父親はチェスの才能に秀でた息子に心の奥底で失望していた。
失望が大袈裟なら、戸惑いと言ってもいい。子供の将来が明るく前途有望であることを望まない親はいない。父ルージン(彼は児童文学の作家)もそうだった。つまり、彼には、棋士が男子一生のシゴトなってことは金輪際思い描けなかった(この不毛な才能への嘆きはルージン嫁の父母に引き継がれる)。
だから、ちびっ子天才棋士丹下段平役に買って出た男、ヴァレンチノフの出現は父親にとってまさに渡りに舟だった。ヴァレンチノフ。後に映画界に転身するこの海千山千は、天性の山勘で子ルージンの才能に賭け、ロシアを離れ海外でうって出る。ロシア革命後、成人したルージンは「名人(マエストロ)」とあだ名される著名な棋士に大成した。

ナボコフの「ディフェンス」の第五章までのくだりをざっと紹介するとそういうぐあいだ。バレンチノフの登場と前後して、作家である父親が我が子に着想を得、天才チェス少年の物語の構想を練る。作中人物としてのバレンチノフの役割は棋士のマネージャーであると前に書いた。しかし彼はそれだけ存在としてうさん臭いのではない、バレンチノフは作者ナボコフの化身でもあるのだ。
バレンチノフの出現は、作者ナボコフの小説世界への干渉を暗示だ。作者ナボコフの狙いは、父親の構想途中の「天才チェス少年の物語」を体よく乗っ取ることにあった。父ルージンが書き上げただろう「天才チェス少年の物語」は、少年のチェスの才能はただのキャラ立ちのための添え物で、サマザマな困難を乗り越え立派に成長するといったタイプの読み物に仕上がるはずだった。しかしそうはさせじと介入してきたのが、バレンチノフという作者の代理人、手駒というわけだ。成人したルージンの、非凡チェスの才能を覆い隠すかのような「発育不全の口髭をはやしたずんくりした若者」という見てくれは、父親が自著のなかで、わが子に英雄的な身体と精神を与えようと試みに対する作者・ナボコフの回答であり、父ルージン駒を容赦なくはね除ける作者の特権的な一手と記憶されるべきだ。
「ディフェンス」は、その全体はチェスのイメージに彩られている。訳者解説で若島正が指摘するように、ルージンのフィアンセに名のない点に着目すれば、彼女がクィーン駒の化身だと知れる。キングはむろんルージンだ。ルージンは指し手でありつつ、キング駒であるのだ。
とにかく、「ディフェンス」は作中人物のルージンとそれを書いている作家ナボコフのがチェス的な攻防を意図して書かれている。ルージンにとってヴァレンチノフとの出会いとは、己の運命に向き会った瞬間であり、作者のナボコフ相手の対局の椅子に彼が座ったその時を意味する。



ディフェンス
ディフェンス若島 正

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