○自称マッドマックスは、現実から眼をそらす。


YOMIURI ONLINE 2007年9月28日23時25分,「法相の「死刑執行見直し」発言、新たな国会の火種にhttp://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070928i414.htm?from=navr

asahi.com 2007年09月25日11時41分,「「死刑執行、自動的に進むべき」 鳩山法相が提言」
http://www.asahi.com/national/update/0925/TKY200709250116.html



死刑執行には法務大臣のサインが必要だが、法務大臣の鳩山はこれを止めたいとの旨の発言をしたもよう。で、これに噛み付いたのが、死刑廃止論者の亀井静香。一体どういう了見だ!ごらっ!と鳩山に面会を要求した。
蝶々ばかり追っかけているバカに法務大臣の職務は荷が重すぎたようだ。

先ほどTBSラジオのニュース解説番組「アクセス」を聴いていたら、フリージャーナリストの二木啓孝が、このニュースに関連した気分を吐露していた。
曰く、えん罪事件などあるとやっぱり死刑廃止の方に心が揺れ、光市のような事件があると死刑もまたやむ得ないと思う、と。
俺も二木と同感だ。というか、大概の人は死刑について似たような感覚をいだくのではないだろうか。
けれど死刑制度の是非や、その運用をめぐって議論する場合、近々の事件の性格に感情的に振りまわされてばかりでは有益な決着をみないことは察しがつく。
つまり、死刑制度を考える場合、一事例にとらわれず、国や制度、あるいはそれらを支える道徳や慣習みたなもの一切合切を俯瞰する視点が必要だと思う。

と書いてみたが、「御託は結構、自分の嫁さんや子供が殺された場合、オマエどうするんだ?」と自分に問うてみた。
たしかに「加害者を殺してやりたい」とを思いっきり憎悪するだろうし、隙あらば、加害者をこの手で葬ってやろうとするかもしれん。
でも、国というやつは、加害者に私的制裁を加えるような隙を被害者遺族に決してあたえたりしないんじゃないのか?
私的復讐、仇討の容認なんてのがまかり通る世の中はやっぱ物騒だ。物騒な社会っていうのは余計なリスクをやコストをその構成員に課すんだ。それは果たして暮らしたい社会のありようか? 仇討ちの容認の果てにあるのは「ヤラレル前にヤレ」の社会だろう。ヤクザか!
それでも潜在的な私的復讐の容認論者はたくさんいる。たぶん。けれどヤツらはテレビの前でマッドマックスな自分を夢想しているだけで、国から報復をする隙を奪われ、裁判の行方を凝視する被害者遺族の心情から眼をそらしている。
「御託は結構、自分の嫁さんや子供が殺された場合、オマエどうするんだ?」
俺は報復する!というマッドマックス気取りは、なぜ光市の被害者遺族が裁判につきあっているかをよーく考えたほうがいい。この国は、犯罪被害者遺族にマッドマックスになることを禁じているのだ。
だから御託をならべることが、死刑制度の是非とその運用について、国がどうように機能すべきかを考えることが必然的に重要だと思う。




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