木下直之わたしの城下町天守閣からみえる戦後の日本」
(筑摩書房 ISBN:9784480816535)


わたしの城下町天守閣からみえる戦後の日本」は異色のお城探訪記。巡った城が東海以西に偏り、脱線的に映る物見遊山もあったりするが、それは木下の興味が一般の城マニアと違うせいだろう。彼のターゲットは城でなく、城っぽくみえる建物。
昭和30年代築城ブームがあったそうだ。木下の関心はこのブームの要因と出来上がった城たちは一体何なんだ?というコト。
「私の城下町」はずいぶんゆるいエッセー風に書かれている。そのため、木下の「城のようなもの」へ対するアプローチが、明確にみえてこない。いやそれは悪いことではない。そうやって迂回的にあるいは脱線的な思考回路と根気がないと攻略できないほど連中は手ごわいのだ。そう、「城のようなもの」は案外タフにできている。
以下、私の関心に絞った要約と感想。

明治維新のころ、楠木正成などを祭る神社建立が明治天皇によって命じられた。秀吉を祭った豊国社の再建もこの天皇の号令によった。
大阪夏の陣後家康の命で破却され、神号「豊国大明神」も剥奪されていた、豊国社の不遇もここに終止符がうたれた。
明治天皇による神社建立命令は、往時の忠臣の顕彰の意図があるようだ。けれど、よくよく考えると楠木正成が忠臣として顕彰されることは合点がゆくが、秀吉の一体どこが忠臣だったのか分からない。
うがった見方をすれば明治政府には、立身出世の体現者として江戸期も庶民的人気を誇った太閤秀吉を天皇の名において名誉回復をほどこすことで、庶民の人気をつかもうという魂胆があったのかもしれない。
ともかく明治政府は秀吉の名誉回復をはかった。それにつられて豊臣家のシンボル・大阪城にもスポットがあたった。
これは、欧米に範をとった近代化を邁進する日本にとって過去の遺物であるはずの城郭建築が積極的価値を持ち始めるキッカケだった。
ところで豊国社建立の命令にはその建立土の指定に間違いがあり、このため京都・大阪で誘致合戦が勃発した。結局明治八年京都に本社を、大阪に別社を建てることで手打ちされた。大阪別社は中之島熊本藩邸跡地に建立された。別社はその後中之島内で一度移築された後、明治三十六年(1903年大阪城内に移された。
昭和三十年代に「築城ブーム」があったと木下はいう。この場合の城とは天守閣をさすようだ。いや天守閣のようなものといった方がいいか。工法や素材も従来と異なった。また天守閣に展望台があるなど、ニセモノ感がぷんぷんだった。けれど、昭和六年鉄筋コンクリート造で建造された先行モデルの大阪城を盾にニセモノ批判を粉砕、各地に城が建った。
前述したように大阪の豊国社は大阪城内に移されていた。秀吉を祭ったものだから、この社殿こそがこの城の主人だったかもしれない。けれど歴史は豊国社にまたしても試練をあたえた。敗戦後、占領軍によって皇民化的プロモーションにつながる神社は大きく価値を削減され、民主国家として再出発を誓った日本側もこれをおおむね了解した。
木下は、昭和30年代の「築城ブーム」の城の特徴として博物館的性格を挙げている。博物館とは、文化財文化財に準じるものが保存されれる建造物だ。
もしかすると戦後の大阪城内の豊国社は、その社殿をかつての主人を祭る宗教的モニュメントから、文化財としての建造物に意味をシフトすることで生き残りをかけたのではないか?
つまり昭和30年代「築城ブーム」は、工法素材的には戦前の大阪城を範とし、博物館的要素といういうコンセプトにおいて、戦後の大阪城のアクロバテッィクな転換を採用したといえるかもしれない。



わたしの城下町―天守閣からみえる戦後の日本
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