ロバート・アルトマン監督「今宵、フィッツジェラルド劇場で

時代遅れの公開ラジオ音楽番組の最期の日の悲喜こもごもを淡々と綴ったもの佳作風に見えるが、そうでないかもしれない。
「プレイリー・ホーム・コンパニオン」は実際の公開ラジオショーで、今なお放送されているらしい。で、本作品でDJを勤めるオッサンは実際の「プレイリー・ホーム・コンパニオン」でも司会をやってるギャリソン・キーラーという人らしい。なおギャリソンは、本作の脚本も手がけている。
そのへんのことを踏まえると、さしづめ本作は、愛すべきラジオ長寿番組の「葬式ごっこ」という体裁を骨格にいるのだろう。
本人演ずるギャリソンは、今日で番組が終わること観客に隠しているし、ショーの出演者の一人が出番後、静かに他界したことも、内々にしようとする。
映画のなかのギャリソンのこうした反応は、司会者としてのプロ意識のためでなく、今日一日もつつがなく過ぎていくことを希求する年寄り的な保守性のためだと思う。当然この老人性保守主義は、死へのおそれの裏返しだ。
年寄り連中を集わせ、多弁にさせ、ときに抱擁(法要?)させたりしているのは、実はこの死のおそれのせいだ。
本作についていうなら、時代遅れのラジオショーを生で観るためにフィッツジェラルド劇場に集う客や演じ手も、番組同様に時代遅れの爺ぃ&婆ぁなのだ。
死への恐怖を忘れるため、爺さん婆さんたちは集い、明日以降の計画を練る。明日生きてる保障はどこにもないのに。
要するに、「プレイリー・ホーム・コンパニオン」は、そこに集まった老人が、己の老いや衰えを忘れるための<場所>ということ。だから、「今宵、フィッツジラルド劇場で」が心温まるお話という見解には私は同意しない。老人に冷水を浴びせ、お前らもうすぐ死んじまうぞ!と脅かすような、まったく不敬老な話なのだ。それがアルトマンなんだろう。本作が遺作っていうのが、また気が利いている。
メリルストリープとリリー・トムリン演ずるロンダとヨランダは姉妹の歌手は、安田祥子由紀さおりを髣髴させた。

今宵、フィッツジェラルド劇場で」公式サイト日本語版
http://www.koyoi-movie.com/