○吉田豪「男気卍固め」読了

(幻冬舎文庫 ISBN-13:978-4344409194)

吉田豪「男気卍固め」はインタビュー集。山城新伍ガッツ石松さいとうたかを、張本勳、小林亜星等々、虚々実々の芸能界やマンガ界において、それを地でいく猛者な男たちを取材したもの。
なるほど錚々たるメンツである。けれど、その猛者のなかに山城新伍が列せられるのに違和感をおぼえる。山城新伍の回から引用。

2本立てっていうシステムの中では、一本大作があれば「不良番長」が常に付いているわけ。邪魔にならなくて時間と制作費用守ってりゃ、監督も俺たちも何やってもいい。

上記引用部分はおなじみアノ新伍節の一節だ。注意すべきは、往年の役者仲間の楽屋バナシだけでは「いわゆる新伍節」は成り立たないことだ。楽屋バナシのあとに人生観風のまめ知識のオチが付いて「いわゆる新伍節」は成立する。
正直なはなし、私はそんな新伍節がさほど好きでない。ひいては山城新伍が好きでない。彼のハナシの運び方には型にハマった反骨精神が見えて嫌なのだ。型にハマった反骨精神とは、足の長い短足というような皮肉である。新伍節、それには分別をわきまえた大人の処世術臭さがある。往年の映画界がハチャメチャにみえて実は不文律があったと言う新伍の口ぶりは、反骨を装おった、しみったれの業界遊泳術の開陳に思えてならない。
先読みや先々読みは新伍節の常道だ。それはまるで「プラマイで一寸だけ儲かったヨ」風な旦那連の博打遊び的だ。だから新伍節に全開はありえない。大負けはしないが大勝ちもありえない。中庸、結局新伍節のイゴコチの悪さっていうのは、帳尻合わせに長けた小賢しさにあると思う。
ざっとコレが私の山城新伍印象だ。けど、今回「男気卍固め」を読んでそれは見当チガイだったかもと思った。
新伍節に見られる処世術臭さは、分別あるおとな根性のためでなく、彼の美意識の発露なのかもしれない。つまり新伍節が処世術臭くなるのは、処世術臭く脚色された結果で、そうした自己演出を新伍は美的かどうかで判断しているのではないかと思うにいたった。
だとすれば私の新伍節ないし山城新伍に対する違和感は、私と新伍の笑いのツボの違いからくるのだろう。ツボが違うのだから私が笑えないのは当然である。
吉田豪は違う。彼は、笑える/笑えないなんて基準で新伍を量ろうとはしない。「男気」、それが吉田の基準だ。むろん「男気」は昔のヤンチャや女や酒めぐる武勇伝的自慢話のエキスのことではない。語り手にとって当然のなすべき行動が伝説化してしまうほどの強度な美意識の別名なのだ。


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吉田 豪

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