○ナイーブ派としての「民藝」

「民藝」における一切の美的判断は柳の眼力にあった。作り手の創作意図など柳はまったく気に留めなかった。これは柳が西洋式の作者の作品に対する特権的在り方に辟易だったせいだと思う。
おそらく、柳は西洋式にかぶれたゲージュツ家に爆発寸前だった。髭引っ張って張り倒してやろうと思ったことも一度や二度ではなかっはずだ。
だから、朝鮮の陶工や琉球の機織りの仕事に柳が心ひかれたのは当然だった。腕前の確かさ、シンプルなフォルム、控えめな模様など西洋式に汚染されない手仕事の理想を柳は「発見」した。

我々が子供の絵に抱く感慨は、柳の「民藝」に向き合う気分に相通じるものがあると思う。子供は髭をたくわえない。ムヅカイ顔で自作を語ったりもしない。確かに子供はまったく無垢ではない。が、少なくとも西洋かぶれのオトナよりはマシなのだ。つまり鑑賞者である我々は西洋化かぶれが見抜けるほど、十分に西洋にかぶれているわけだ。とどのつまり、「子供の絵」の鑑賞眼は西洋かぶれが一周した後に培われる。
柳は朝鮮半島琉球の地に「子供の絵」としての手仕事を見つけた。
柳の盛り上がりを初っ端から理解できた者はごく少数だったろう。つまり「民藝」は柳のマイブームだった。
その後「民藝」は一大旋風を巻き起こした。辺鄙な土地の手仕事に注文が殺到した。つまり、西洋かぶれの鑑賞眼が巷に広く行き渡った結果だった。
「子供の絵」しての手仕事たちは、より一層「子供の絵」らしく振る舞うことを期待され、不気味な土産物に変貌した。
みうらじゅんの言う「いやげもの」の誕生である。