]

貝塚茂樹史記―中国古代の人びと」
(中公新書 ISBN:4121000129)


「列伝」が記述された背景には、司馬遷の生きた時代の気風があったと貝塚は指摘する。その気風とは「個人の発見」のことで、司馬遷が、太子公曰くうんぬんと各伝記の巻末に控えめでありながら、率直に伝記人物の長短を論じたのも、およそ人間たる者は己の才覚で人生を切り開くべし、というアンチ運命論の、溌剌と人間主義を表明したものに他ならないとする。
一体歴史とは何かという定義のモンダイでもあるが、「個人の発見」が歴史の一構成要素に甚大な影響を与えたことは間違いない。ところで、中華流の「個人」とは、優れた才能の意味であり、西洋流の「個人」概念と異なり、人権思想の母となり得なかった。
ようするに、中華流の個人は優勝劣敗のルール上の概念であり、国政に関する大半の判断を卓抜した一人に委譲し、残りの人員がこれにぶら下がる式の中華伝統専制政治体制も才覚主義的個人主義に拠ったものだった。
「列伝」にうかがえる司馬遷の「個人」が存外幸薄で、はかなげな印象を受けるのは、専制君主制を前提としているためと思われる。つまり司馬遷か列伝に書き留めようとこころみたのは、専制政治の内にあってこれを効果的に運転するために尽力した官僚や職業軍人の功績や失敗のことだった。私が司馬遷に対して不満に思うのはこの点で、アンタ結局、後出しジャンケンじゃないか!ということに尽きる。
おすぎがオカマを隠れ蓑に芸能人を肴に毒づいたりする芸風は悪口としてなんら目新しいものはない。司馬遷の寸評もさしてコレと変わらないのではないか。
司馬遷の時代から二千数百年の時を経た今日の日本において、善くも悪くも個人的才覚への信頼はより一層深まっていようだ。
原は林を代えて豊田を投入するべきだったとか、高卒ルーキー・スタメン捕手抜擢、西武好調の要因論、楽天野村監督の飯田二番バッター起用の的中など、各地の居酒屋で連夜繰り広げられる野球談義は、大概がプレーに対しての結果論、司馬遷流の「後出しジャンケン」に他ならい。
やおら威勢よく唄われる六甲おろしに、そこはかと悲哀が混入するのは、己の才覚一切を棚上げする傍観者的な自意識がシラフに戻って慟哭寸前のためである。
気の利いた寸評もなしに結果論に執着するのは、己の才覚への見限りで、その伝でいけば、居酒屋で結果論的野球談義にいそしむサラリーマン族は各々司馬遷の末裔である。



史記―中国古代の人びと
史記―中国古代の人びと貝塚 茂樹

中央公論新社 1963-05
売り上げランキング : 105,283

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

関連商品
中国の歴史 中 (2)
中国の歴史 下  岩波新書 青版 744