○「史記―中国古代の人びと」読み中
(中公新書 ISBN:4121000129


池袋西口公園古本市で貝塚茂樹史記―中国古代の人びと」を買った。ぐんぐん読ませる入門書。面白い。
史記」は、中国前漢時代の歴史家、司馬遷(BC145年〜86年?)によってなされた歴史書
その「伝記」部分は、人物本位のエピソードを中心に書かれた。この記述スタイルを紀伝体という。
当時芽生えだした人間主義、個性についての自覚が彼にそのスタイルを採らせたようだ。
貝塚は書き出しで、「偉業の人」を業績を称えるときにありがちな説教臭さを避け、司馬遷が「史記」を書くに至った背景・経緯とそれに込めた並々ならぬ意気込みを、人間司馬遷に寄り添い、彼の心の機微にまで立ち入り、平易に伝えてくれる。私は通りすがりの読者すぎないが、そんな門外漢にもくつろいだ気分で読めるのは有難い。
ところで、私がいまひとつ分からないのは、司馬遷が「史記」に記述する/しないの基準。
ひとつ糸口になるのは「不朽」という概念。当時名を成した人々は、自らが死んだのちもその名声が後世にまで伝わり残ることを理想としたと貝塚は言っている。
司馬遷おいても、この「不朽」への志向が「史記」著述の動機になっていると思われる。そして「不朽」は彼に未来の読者を想定させたはずだ。
その意味で「史記」は未来への手紙であり、タイムカプセルである。「史記」執筆にあたって、司馬遷はおびただしい先行文献にあたったのみでなく、現場を取材し必要あらば土地の人々にインタビューまで敢行したようだ。むろん、かき集めたそれらの膨大資料は丸ごと載せるわけでなく、取捨選択のうえ記述されただろうがだが、どうも取捨選択の基準が曖昧な印象をうける。一人物を載せる/載せないのみでなく、ある人物のあるエピソードを採用する/しないの基準がどうもピンとこない。
今書いていて、ある一定の位にあった者や功をなした人物は漏らさず採用すると立場もあるのだと思いついた。これは確かに合点がいくアイディアである。
貝塚は、内藤湖南の意見として次のようなに言っている。53ページより引用。

「列伝」の冒頭におかれるのが「伯夷伝」である。内藤湖南先生は、これを単なる個人的な伝記でなく「列伝」の序論の意味をもっていると解されている。というのは、伯夷の事跡についての適確な資料はないので、司馬遷は伯夷をだしにつかって歴史的人物の運不運を論じ、さらに運命一般についての理論を述べているからである。

手相や顔相という中華伝統の占いは、その性格は基本統計であると以前その道に詳しい知人より聞いた。これと同様に司馬遷も歴史的人物の一代の有様を膨大にかき集め、記載したのだろうか。そして「列伝」として眺めた際、運不運を超え運命一般について「不朽」の何かが見えると考えたってことなのか?
なるほど、そう考えれば彼が紀伝体という人物本位の記述スタイルに至った理屈も分かる。しかしクドイようだが、それでも採用する/しないの基準はあったはずだ。まだ読書途中であるけれど、「史記」の価値は、古えの人から同時代人までの名声を「不朽」にパッケージしたからという意見はどうにも煙に巻かれたような気分を残す。
「名声」とは一体何か?司馬遷はこれについてまったく判断を保留たのか?あるいは、行為と功績の因果関係を彼がどのように解釈したのかもよく見えてこない。
最大の弱点は「史記」からはじきだされた人々の人生、それは一体なにゆえに「不朽」に値しないとされたのか?だ。
まだ読書の中途であるが、その辺の司馬遷の価値基準はさっぱり分からない。ま、そうは言っても、断然面白いのだ。