○歴史とフィクション


先日松本清張「清張日記」(ISBN:4022605375)を読んでいると、黒澤明「乱」の脚本をわざわざと取り寄せ、史実と違うとナンクセつけてる箇所に出くわした。
たしかに「乱」は、黒澤作品としては出来のよいものではないが、その出来不出来は史実云々ではかりうるものではない。
あらゆる創作活動において、実際にあった事件や歴史的な事柄をモチーフに作品をなすことは珍しいとではない。また、作者は歴史家でないから、これらの作品が枝葉末節において史実に忠実である必然性はどこにもない。
つまり史学者と作家はおなじテクストを扱う場合はあるが、まったく異なった動機でそれを材料としているので、史学者は史学者という肩書きでおいて、ある作家の作品を史実に忠実であるか否かというレベルでしか評価できない。また、この限界性を知る者はあえて史実云々を口にしないはず。
史学者も人の子である。ゆえにそれなりの世俗を知り人生の困難を経験していれば、おのずと機微に通じうる。だから史学者も役人もラーメン屋の店主も本屋の店員もその人なりの人生のあるじであり、これと照合することによってフィクションのなかの人生を追体験しうる。
繰り返しになるが、史学者であっても史実云々でない側面からフィクションの醍醐味を堪能することは可能である。
反対に、人に立ち返らず、職業・専門に頓着するのは人生の軽視のあわられであり、この場合の学説・理論は、みずからの人生の貧相さを防御する亀や蟹の甲羅等しい。松本清張の黒澤「乱」へのナンクセはその典型で、ナンクセのために史学で武装しているに過ぎない。
こうした清張式の「史実でないの」難癖は、油断すると大輪の花を咲せるので要注意だ。
拠って立つのではなく、馬鹿丸出しでも人であれ。




清張日記
清張日記松本 清張

朝日新聞社 1989-01
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools