司馬遼太郎の世界を解明するためのキー・ワードは、“辺境史観”と“技術史観”であると、筆者はおもっている。
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_434/434_4.html

“辺境史観”は、極東という辺境にある日本の大道がユーラシア大陸に通じているというグローバルな発想による史観である。それは極東の辺境、日本から中央のユーラシア大陸を、歴史的、空間的にみる視点であり、特殊な日本文化から、普遍的な中国文明やヨーロッパ文明をとらえる視点にほかならない。

そして、逆に、中央のユーラシア大陸から辺境の日本を、中国文明や西欧文明から日本文化をとらえる観点である。人間が生涯に為すことは、幼少年期に用意されているといわれる。このことは、司馬遼太郎にもあてはまる。竹内街道から芽生えた異文化、異文明への強い関心が、ゆたかな詩的想像力を飛翔させ、ユーラシア大陸に幾十世紀にわたって、くりひろげられてきた人間の悠久の歴史に、あこがれとロマンをもとめて漂泊する詩情の作家にしたのである。

爆笑問題太田光がラジオでしゃべっていたこと。太田は子供時代、仮面ライダーごっことかウルトラマンごっこが嫌いだったそうだ。
それは自分たちがどうあがいても本物には勝てないと感じていたからだという。
学校のクラスで演劇に取り組む場合でもオリジナルの脚本でやることに自分はこだわったという。既存の脚本ではプロの役者に勝てるわけがない、という意識があったからだそうだ。
ソフビのウルトラマンや怪獣の人形で遊ぶこともあったが、それは自分のオリジナルな設定で彼らをディレクションできるからで、一番好きだった人形もウルトラマンのパチモンのよくわからない正義の味方風のものだった、と。そっちのほうが想像力が膨らんだから、と太田はむすんでいた。
私もそういうとこがあったが太田少年の他人の土俵で遊ぶことを潔しとしない感性は相当なものがある。
太田のハナシを聞いて真っ先に思い浮かべたのは司馬遼。
司馬遼は東京や銀座、(東京の)文壇への敵愾心のようなものを抱いていたようだが、そうした当人独特のコンプレックスは、己の立つ場所を東京や銀座、文壇に対しして「辺境」と位置づけてたと思う。
中心の中心性とは、よくもわるくも内輪、自己充足にあるとだとすれば、おらが町や村の中心からのまったく相手にされててない感は、名状しがたい屈辱なるだろう。ただ、司馬遼の不思議さはその屈辱的中心の無関心を「自由」ととり、こどもが白紙にクレヨンでお絵かきする風に辺境の余白を己の妄想で埋めていったわけである。
「国民作家」といわれる司馬遼太郎だが、それはたまたまの結果であって、その正体はドえらい妄想おっさんという他ない。