京極夏彦「続百物語」
(角川文庫 ISBN:4043620039


私の周辺で映画「姑獲鳥の夏」の評判はそれほど悪くない。
というか、アレを見に行く連中はきちんとそれなりの心構えでのぞんでいるのだと思った。
妖怪愛という言葉を思いついた。キャラクターとしての妖怪とそれが背負っている背景(ストーリー)への愛着を指すと思う。
水木しげるは、私のふるさと沖縄のシーサーを鬼太郎にも登場させているのだが、アレはいまひとつ合点がいかない。
シーサーは魔よけの獣であるが、妖怪ではない。今日それを屋根や門にあしらうのは、沖縄的な家屋の意匠であるが、今や彼らが鎮座するのは魔よけ信仰のためでなく、シーサーという架空の動物に対する愛着の故であるはずだ。
鬼太郎のなかのシーサーは子どもとして描かれている。無邪気で人懐っこい性質に描かれているが、私のなかのシーサー観にはまったないものだ。シーサーも犬猫のように、子シーサーから成長するものなのだろうか?私の考えれるシーサーは生まれたときからオッサンのタテガミそびやかしてるようなイメージだ。
非常にハナシがとっちらかってるが、この世でないものという存在はそれぞれの地域にあるだろう。その点、水木しげるは幻視しているのだと思う。ただ、それら地域における異界とよその地域の異界を接合することについては多少慎重であってもバチはあたらないのではないだろうか。
「続百物語」は当たり前だが「百物語」続編にあたる。
上記に長々と書いた異界と異界を安直につなげる無頓着さを京極は周到に避けている。なんせ「妖怪」を操るのは、無信心の連中なのだから。
妖怪を怖がる者とそうでない者。その境界がこの続編のテーマのようだ。無信心とは怖いもの知らず、命知らずの、人でなしの意味のようだ。


続巷説百物語
4043620039京極 夏彦

角川書店 2005-02-24
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