中島義道「<対話>の社会 思いやりとやさしさが圧殺するもの」読み中
PHP研究所 ISBN:456955847X

調布駅から甲州街道に一直線に延びる通称大学通りは、放置自転車禁止地区であるにもかかわらず、歩道にぎっりし自転車が埋め尽くされているという。大学通学にこの道を利用する中島は、放置自転車を取り締まらない市の態度に業を煮やし、抗議の電話を入れるが埒があかない。
そこで彼は、その道を通る際自転車をバッタバッタとなぎ倒しながら歩くという行動に出た。歩行の自由が妨げているモノは自力で排除するという意味のようだ。
けれどそれもシンドイので、通常は回り道で通学しているらしい。
75ページの「首締め事件」より引用。

ある夜、大学でコンパがあり、少々酒が入って私は回り道をするのもいらだたしく、バッタバッタと自転車をなぎ倒しながら大学通りを歩いていった。すると、後ろからいきなりコンパで一緒だったY先生が私の首筋をつかむと「おまえ、勝手なことばかりしやがって!」と私をドウと地面に倒し首を絞めようとする。彼と一緒に歩いていたX先生が必死で止める。Yも酔っていたが、私とYのあいだでしばらく大激論が続いた。

人間通を標榜する谷沢などからすれば、中島の行動は「人間未満」だろうか。
中島の行動は、ルール違反に対して寛大に対処する日本的な規則運用によって、本来そのルールが保護すべき自由が損なわれていることに対する自己防衛措置と捉えるコトが出来る。
司馬遼は、武士道や陽明学などのイデオロギーを嫌う傾向があったし、そのようなことを口にもしている。
中島の行動はある種イデオロギー的である。けれど、それを毛嫌いすると「この国のかたち」がひどく不細工で貧弱なものになってしまいかねないのではないか。
中島の行動は、その意味において司馬遼のイデオロギー嫌いが一体何だったのかを再考させる手がかりになるかもそれない。
別の言い方をすれば、山折哲夫サイドからでない司馬遼テクストの読みが試みられるべきかもしれない(ホンマかいな)。

「対話」のない社会?思いやりと優しさが圧殺するもの
456955847X中島 義道

PHP研究所 1997-10
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