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○語り(=騙り)手としての司馬遼
「おれは権現」という秀吉譜代の家臣福島政則周辺に材ととった短編集を読んだ。
収録「若江堤の霧」は、豊臣方の木村重成という武将にスポットを当てたもの。木村がマイナーな存在であるがゆえに、木村の器量、可能性を持ち上げる司馬遼の筆致には爽快な疾走感がある。が、後半3ページは急に歴史エッセーに変貌し、駄馬ヨロシク失速している。
娯楽として読む分において、このような瑕疵を言いつのるのは時間の無駄であるが釈然としないものがある。一体全体司馬遼は小説を何と心得ていたのだろうか。史実に忠実であれば良しとしたのか。この白髪おかっぱメガネの老人の魂胆をいまだ理解できない。
<インタビュー>諸葛孔明の虚像に迫る 酒見賢一、より引用。
http://www.bunshun.co.jp/jicho/nakimushi/nakimushi.htm
司馬遼太郎作品の特色のひとつは、時折、作者の顔が覗くというところだと思うんですが、覗くにしても『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』などは、作者が主人公に寄りそう形で、物語になっている。けれど『空海の風景』になると、顔を覗かせる作者が果たして空海に寄りそっているのか、突き放しているのか、よくわからない。空海のやっていることの半分はオカルトで、司馬さんの好みとはそぐわないような気もしますし、まあ、非常に実験的な作品だと思ったわけです。
こういう司馬さんの実験的手法を用いると、嘘八百がまるで史実であるかのように表現できる不思議さがある。ではそれをもう一歩進めてみたらどうなるか。そんな小説は成立するのか。そういう個人的なテーマはいちおうあるんです。
そもそも歴史小説を書くということ自体が、ウソをつくことというか。歴史上の人物が何を考えていたのかなんて知ることは不可能で、仮に本人の手紙という一次資料があったとしても、違うこと考えながら書いていたかもしれないし。
古の事件・事故において、それに関わった人々の行動は、往時の公的文書、日記、手紙、あるいは川柳のような通俗文学からある程度確定できる。が、その胸中は結局我々めいめいの空想にゆだねるられる他ない。
上記引用で酒見が指摘するように、手紙文に記されていることをすべて当人の本音と断じることは、ある程度の人生経験を積んだ者なら慎むべきである。
史実にそくした記述が定評ある司馬遼であるが、丸括弧などをさかんに用い、人物の心の声を書き留めるという部分はやはり司馬遼による作り事である。
ところで、こんにち史実と確定される事項は、それなりの段取りを踏んだものを指すのであり、それは制度上の史実に留まる。別の言い方をすれば史学とは、約束事のうちの「事実」の発見であり、その検証を延々と積み重ねる業といえる。ゆえに史学は、古にあった人や合戦や料理そのものが対象ではなく、それらについて記されたもの解釈の学問である。
だから、司馬遼がそれに忠実であると評価される史実とは、約束事のうちの事実にほかならない。つまりそれはフィクションの別の顔のことだ。
以前に書いたことの繰り返しになるが、私の司馬遼についての関心は、彼が史実(=フィクションの別の顔)に精通していたということにはない。寺マワリの新聞記者福田定一を司馬遼たらしめた書く動機と採用された下手くそ小説スタイルこそが私の関心射程だ。
「空海の風景」の小説してのギリギリさ加減に司馬遼文学の本質とその可能性を示唆する酒見の意見はその意味において卓見だと思う。
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