動物化する龍馬、あるいは余話としてのポストモダン


finalventの日記 ,「 嗤う日本の「ナショナリズム」」より引用。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050507/1115453200

個別なところで、「電車男」って、ざっくり言えば、やらせでしょ。日本の「ナショナリズム」といっても、プリミティブなものが韓国だの中国だの反照されているだけはないのか? という以前に、たとえば、韓国や中国の現代のナショナリズムってすごい変、って思うのが、そんなプチナショナルってことでもないと思うが。大衆がその状況でクチを開いたという以上でもないし、大衆は大衆だし、というくらいなことではないのか。

博報堂はバブル期に、「分衆」なるキーワードを考案した。それが足枷になり身動きが出来なくなった。
概念やモデルは道具。そして、「大衆」も道具。
「大衆」に向けて小説を紡ぎ続けた司馬遼の短編集「アームストロング砲」収録の「倉敷の若旦那」は、商売敵への募る不満はやがて尊皇思想と結びつき、「侍」に変貌した質屋の若旦那のハナシ。二次大戦に突入し、無駄に人が死んだ往時日本の辛辣な批判と読める。
司馬遼はイデオロギーに冷淡で、イデオロギーすらも天秤に掛ける商人の気質を愛した。
やはり、時代小説とは司馬遼なりの方法で、二次大戦に至る日本を反省(=検証)する試みという側面があったと思う。結果、司馬遼は江戸の太平が培った商品経済と商人の台頭に着目した。
司馬遼の戦争反省・批判は、尊皇思想や武士道といったイデオロギーへの冷淡さとして作品に反映される。また、商人や渡世人の生活を活き活きと描き、旧弊やイデオロギーに囚われない自由な精神を説いた。
反面、その自由な精神の行き着いた先が、今日的「日本のかたち」なのだ。
司馬遼が存命なら、いまの日本をどう評するだろう。
ふと東浩紀の「動物化」は「大衆」のいきいきとした様子をいうを指すにではないかと思った。
渦状言論,「メタと動物化と郵便的世界」より引用。

したがって、僕は決して、人々がバカになって、メタゲームをしなくなったと主張しているのではない。そうではなくて、人間にはもともと生物学的に(それこそ動物的に!)世界把握の階層数に限界があり、現在の情報環境はそれを超えた複雑さを備えている、と主張しているのです。言い換えれば、メタゲームはいまでも行われているのかもしれないけど、それはもはや何の意味もない、と主張しているのです。

司馬遼や東にとっての「大衆」とは何かを考える上で、「嗤う日本の「ナショナリズム」」は示唆に富むと思う。



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