○民藝&トマソン、あるいは西洋憧憬の友人たち

私の柳宗悦問題は未解決のままだけど、yugi713さんの意見(http://d.hatena.ne.jp/yugi713/20050407#p1)を拝見し、以下のように考えた。なぜデスマス調かは不明。


柳宗悦は少女趣味眼力のモダニストだったのでしょう。おそらく彼の朝鮮旅行は、”モダン探しの旅”の発端だったはずです。
というか、西洋化とは別のモダン(=近代)があるかも!と柳に霊感させたのが朝鮮の陶器だったと思うのです。
だから民藝とは、「ユーザーオリエンテッドな」意図で作られた日用品とそれらに宿る美しさのことなのでしょう。
しかし、いざ民藝が運動化すると本来のその土地土地ののほんほんとしたユーザーオリエンテッドな仕事道具や家具、調度等は急速に民藝化されていくという逆立ち状態に陥っていくわけです。
「利休好み」という言い方にならえば、「民藝好み」が民藝運動によって、爆発的に普及したということです。
だから、「すでに我々の眼は民藝化されいる」という思い付きは、あながち見当はずれではないと思うのです。
民藝化された視線で眺めれば、江戸期の蒔絵、根付と昨今のケータイデザインとのつらなりを容易に<発見>してしまう。
もはやこうした逆立ちはマーサスチュアートのようなガイジン女の青い眼にも反映されており、しかもその青い眼を通して、ジャパニーズビューティが「ラストサムライ」風に逆輸入されてしまっているのが現状でしょう。
確かに、民藝が主張する美しさはあったと思います。けれどそれが日本であったかどうかは分かりません。民藝運動のフェミニンに見えて大変暴力的なトコロは、民藝に馴染まない工芸群をを無視した上で成り立つ「歴史」に執着する点だと思います。別の言い方をすれば、民藝に馴染まない物を排除した上にニッポンの伝統を見てしまうということ。
私見では、赤瀬川らのトマソンは、民藝運動が掲げる価値観、ユーザーオリエンテッドな「用の美」にへの異議申立であったと思います。けれど、いまや「トマソン化された眼」と「民藝化された眼」は何故か共存状態にあるのです。とてもウマのあう友人のように寄り添うのです。つまり、西洋でないモダン探しに奉仕する眼つき達です。
別のモダン。それはチャーミングなアイディアです。が、それゆえに危ういのです。「モダン」でない膨大民具や工芸群を忘れ去ると言った意味で。