○マックスウェーバー「職業としての学問」
(岩波文庫・白/尾高邦雄訳 ISBN:4003420950)
アマゾンの紹介記事を引用。

出版社/著者からの内容紹介
第一次大戦後の混迷のドイツ.青年たちは,事実のかわりに世界観を,認識のかわりに体験を,教師のかわりに指導者を欲した.学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で,「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤した.

ウェバーのいう日々の仕事とは、ある写本のある箇所について「これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である」として、なにごとも忘れて解釈を得ることに熱中するような時間の過ごし方を指すようだ。
別の言い方をすれば、学者としての職業倫理とは、おのおの属する学問体系で研究に値すると信じられている課題にくそ真面目に取り込むことと言えるだろう。
たとえば内田樹の昨今の首都大学東京に対する言動は一体どういうスタンスから発せられるのかというのが俺の関心で、ウェバーのいう学問を生業とする者という観点からすれば、およそ黒に近いグレーと言わざるを得ない。
が、内田を「人寄せパンダ」と捉え、彼もそれを自任している場合、彼のブログでの発言(クビ大学問題や合気道的身体論への言及)やべらぼうな著述活動は合点がゆくように見える。
では、宮台はどうか?
彼の「終わりのない日常を生きろ」というメッセージは何故かウェバー風に聞こえる。
けども、本屋サイドから眺めた宮台は、指導者風なアニキであったりするから、意味が分からなくなる。
しかし、宮台の亜細亜主義は「敢えて」亜細亜主義なんだとも言う。つまり指導者風なアニキ面は「ウソだぴよーん」ってことか?ま、うそだぴょーんとは言わないと思うが。
くそ真面目に取り組むということは、仕事に欠かせない態度のように思えるが、職業が異なれば、くそ真面目に取り組む内容もことなる。つまり職業を異にすることは、神を異にするも同様といえるだろう。
漫才師のくそ真面目は大概ふざけている風にしかみえないし、力士は年がら年中裸同然の格好で相撲をとっている。本屋はバカのような本ばかり並べるが、魚は平積みしない。
仕事において、我々が納得するのはけっして金銭的な報酬ではない。職業に潜む道理のようなものが我々を魅了するのだ。
それはくそ真面目に精進してこそ、見えてくる光明なものではないか。

職業としての学問
マックス ウェーバー Max Weber 尾高 邦雄

岩波書店 1980-01
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