内田樹、あるいは価値自由の動く城

タツルのブログ 2005年01月20日、「首都大学東京の光と影」より引用。
http://blog.tatsuru.com/archives/000688.php

それよりはむしろ(これは前に書いたことの繰り返しになって恐縮だが)、「首都大」というサーバーを一個都庁の倉庫にでも置いてはどうか。
学生たちが「他の学校の、あの先生の講義」を聞きに行ったり、「カンボジア」に行ったり、堀江某の「金で買えないものはない」というような講演を聴きに行ったり、同年齢の友人たちとルームシェアして酒を飲むたびに、パソコンの端末から自己申告で「単位申請」を打ち込む。
そのように単位を「銀行に預金するように蓄積」して、124単位たまったら自動的に卒業証書がプリントアウトされるというシステムにすればよろしいのではないかと思う。
それなら、キャンパスもいらないし、教員もいらない。
サーバーのメンテをする派遣社員の二人もいれば十分である。

微分積分って社会に出ても役に立たないじゃないっ、という「しゃべりば」風な愚痴がある。上の学校へ進学理由の大半が「就職に有利だから」という本邦の社会システムにおいて、上記のような学問を有益が否かで計る気分は当然と思う。
ダブルスクール族とは、大学に通いながら、資格試験に備え専門学校にも通学する学生諸君を指すようだ。
私見では、ふたつも学校を通うのは、この部族が向学心旺盛なためではない。大学の卒業証書も欲しいが、講義の大半は今後の己の人生にためにならない、少なくともと厳しい就職戦線を勝ち抜く上で有益な情報はなさそうだいう見極めが、彼らを大原簿記やTACに向かわせるのだ。
アメリカのロースクールに範をとった法科大学院は、こうした巷のニーズを察知した大学側の「役に立つ講義」への進出と見て良い。つまり専門学校的な知識や情報の供給に乗り出したわけだ。
少子化に歯止めが掛かる見込みがない以上大学の経営努力はある意味賞賛に値するとは思う。ただ、大学の過度の専門学校化に邁進することは、大学の根本的な存在意義を根こそぎ台無しにしかねない、と老婆心ながら申し添えたい。
マックス・ウェーバーのいう価値自由とは、役に立つとか立たないという判断を一端括弧でくくり、対象に打ち込む学究魂を下支えする概念だと私は思う。
役に立つか否かの判断は、大学の外で大いにやればよい。というか大学の外はそれしかない。そんな世知辛い世の中で、大学がの守るべき自由とは、当面の社会の要請からはずれた、というか永遠にはずれっぱなしであるかもしれない対象に、学究の徒が一生を賭けて挑み、その成果を後進に繋げていく環境を意味すると考える。
ゆえに親御さんや学生は勘違いしてはならない。教授陣は己の研鑽の合間に講義で息抜きをしていることを。
大学生活は無益だというのではない。有益かどうかをの判断を保留にし、コレ!と定めたテーマにとっ組み合い。仲間先輩やあるいは教授に噛みつき、ああでもない、こうでもないと思い悩むことこそが、それからの人生において、かけがえのない武器とになるということだ。
社会人になって十数年なる。学生時代を振る返って、何であんなアホみたなことに一生懸命だったんやろって、にんまりしてしまう自分が今いる。人生に対してふわふわした希望を胸に抱く典型的な80年代的バカ学生であった。石川の刑訴法、山川の物権、沼野の刑法、北野の税法。彼らの講義は今じゃほとんど覚えていない。けれど、あの括弧にくくられた日々に学恩がある、とはっきり言える。
不惑。あと数年で私も大台にのる。それなりの人生経験から言わせてもらえれば、世間とはかなりの荒波だということだ。そして、そして一〇代二〇代の若い諸君は、小さな小舟にすぎない。肝心なことは、荒波に呑まれないこと。そしてそれは荒波のなかを小舟の抜群に運転することではなく、荒波を相対化する視点を養うことだ。



参考:
電網山賊「 ぬるいウェーバー話」
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20040629#p4