夏目房之介「マンガ学の挑戦」
(NTT出版 ISBN:4757140843

一時期マンガ家が小学生のなりたい職業の上位にランキングしていたと記憶する。今はどうだろう。最近の子どもはちゃっかりしているから、マンガ家のアシスタントなどと語るかもしれない。
振り返ってみれば私自身が、ベレー帽を被り、ネームを入れながら電話で編集者と打ち合わせする自分を夢想するマンガ少年だった。小学時代ディズニーもどきを描き、同時にちばてつやタッチの習得もめざした。中学にあがると水島新司の線描と鳥山明スタイルの融合を中学生なりに模索した。高校のときに滅茶苦茶画の上手い奴がいたので、方向を転換4コママンガへ活路を見いだそうと試みた。時代はヘタウマの亜流が溢れかえっていた。嗚呼、80年代。
マンガは誰のものか?夏目はねばり強く読者へそう問いかける。作者のもの?原作者のもの?読者のもの?出版社のもの?アシスタントは?担当編集者は?等々。
商業的なニーズのなかでこなしていくためには程度の差はあれ、マンガ家が単独でマンガを描き上がげることは物理的に不可能ではないだろうか。あるいはアシスタントや原作者の手や頭を借りず、己の霊感と技量で描いているマンガ家であっても、彼/彼女の作品がこれまでのマンガの表現技法から全く無縁であるはずがない。
アナ氏の実況であることを表現するふきだし、みえない風や気配を示す効果線。登場人物がかんしゃくを起こしていることを表現するためにおでこに記入される記号等々はマンガの先達が築き上げた作法やテクニックである。ありふれた言い方になるが、マンガは実にそうした過去の作品群の剽窃(パクリ)で成り立つ表現形式である。
河童、金持ちの女、コンピュータを万能過信する科学者。悪人。ある種のステレオタイプな造形は読者に「読みやすさ」を提供するためにある。繰り返しになるがこうしたメソッドの数々は、マンガの先達たちが遺してくれた財産であり、読者と作者をつなぐ表現上の約束として無意識に了解されている。
夏目はそれほど明確に言ってはいないが、マンガは作者のものだ!と声を張り上げる一部の動きにに、慎みの欠如をやんわりとたしなめているように思う。なんせマンガを描くうえでの約束ごとの大半は先行する作品群に負っているのだから。
マンガは誰のものか?むろん作者のものであるし、また読者のものである。というか、実はどっちのものでもないのかもしれない。マンガはマンガ然としてその両者の間に横たわるで山脈だ。先達の蓄積の山脈の前では、描く側も読む立場も一介の登山家にすぎない。
夏目は、表現メソッドのみならず、マンガ評論のこれまでの厚みも財産と捉えている。マンガ学とは、夏目のマンガ山脈へ対する畏敬とそれを己なりの登山ルートを虎視眈々と計算する鼻息の学である。