○「M色のS景色」収録「枯野をただようオブジェ」
河出文庫 ISBN:4309409800)
「M色のS景」には、現代アートを題材に採った「これは餡パンではない」短編が収まっている。作中人物の鏑木聡信教授は、「伝統的手法を堅持した一連の植物画と群像画で数々の権威ある賞に輝く」画壇の大御所であり、若かりし頃は読塗アンデパンダン展の常連の美術ゲリラだった経歴を持つ。
「枯野ただようオブジェ 自然芸術のパラドクス」は、鏑木教授が1987年「比較アート学会三十一回全国大会」において発表された講演録をもとに三浦が書き起こした、という設定。むろん鏑木はフィクションの御仁であるから、論旨の骨組みは三浦の考えの反映であろう。以下私の感想をつれづれに記す。

鏑木は、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野を駆けめぐる」は、どう解釈すべきか?と問題提起している。鏑木の問題提起の意図は、「作品」という概念の現代アートとそれ以前の違いは何かという点にある。
思うに、現代アートはポップミュージックに嫉妬している。端的に言えば現代アートとは、バンドのライブ演奏のように、作品を作品のみでなく、出来上がっていく過程をも作品をも含めて鑑賞をうながす様式を羨望している。
柏木博は著書「日用品の文化誌」において、エレキギターの革命性はデカい音が一人で鳴ることと述べ、それまでの楽団の編成から自由な型破りの演奏スタイルを可能にしたと指摘している。
ポップカルチャーの担い手と受け手の差は僅差であり、往々に奏者に対して尊敬よりも共感が先行することもエレキの革命と無縁ではない。つまり、エレキギターは音楽鑑賞のスタイルを一変させた。ギターのかき鳴らし方や歌声といった、奏者の手癖(=個性)や雑誌のインタビューで訥々と語る生活信条などロッキングオン的な語りが音楽を聴くうえでより大切な要素として扱われる契機になった。

鏑木は、芭蕉の辞世の句から芭蕉イメージの追放を提言する。芭蕉にまつわるエピソードやそれを源泉とした芭蕉イメージの一切を。
鏑木は自在なスコア解釈としての批評を目指しているのではない。彼は私たちがいかにロッキングオンイデオロギー(個性崇拝?)に毒されているかを示唆している。
つまりは、現代アートの創作過程をも含みつつ作品とするその姿勢は、渋谷陽一によって商売して体現されている。