○矢印礼賛

一般に猫は自分の目の前を横切る小動物に反応する。小動物でなくチョロQでも目の前で走ると前足での捕縛を試みる。「野性」や「本能」といわれるものは、案外機械っぽいものではないかと思ったりする。
かねがね思っていたのが、矢印はすばらしい。線、その片側を三角であしらっただけで、劇的な変化が生まれる。それ以上でも以下でもなかったという風情の一般的な線が誘導する任務を拝命し、彼はまさに矢印となる。
「←50M」と書けば、またまた矢印の機能は強化される。「50メートル先に矢印の方角にススメ」という意味だ。なかなかやるな、矢印。
矢印が矢印として機能するのは、それを眺める側の私たちの「本能」を利用しているからではないかと思う。
心理学的なことは実は私は分からないが、気持ちいい色のコンビネーションや、すわりのいいレイアウトは、十中八九この「本能」を利用していると思う。音楽のハナシでいえば、悲しそうなメロディというのは、やはりあるし、なんだか走りたくなる曲調もある。
そういう意味で、いわゆる言葉によるコミュニケーションだけが意味伝達の手段ではない。我々はいつのまにか同じ土俵のなかにいる。土俵にはこれまでの先人たちの知恵や悪戦苦闘がしみ込んでいる。
要するに「本能」と言われるものの大半は、それが当たりまえ過ぎために、見過ごしている綿々と継承されてきた技術群を指す。