○与儀タンク跡

那覇空港に降り立った私はタクシーを拾う。以前は弟や友人の車をアテにしたが、彼等ももはや暇人ではない。マグロの赤身を基調にした白と黄色の2本線が横っ腹に走ったタクシーが後部座席の自動ドアを開け、私はそれに吸い込まれてるように乗り込む。
「コクラ小学校まで」
私は私がかつて通った小学校の名をドライバーに告げる。学校から我が家まで5分ほどの距離だ。コクラ小学校。私の実家の住所は古波蔵だが、小学校の名は古蔵。役所は内地風にしたつもりかもしれない。私はその最初の3年生だった。クラスが増えすぎて与儀小から分離したのだ。運動場は風が吹けば、赤い砂塵が舞った。本島独特の赤土が、どこぞの山からそこへ運ばれただけで定着していなかった。
学校の一帯は、米軍用地が解放されたものだ。いまでもその一帯は通称「与儀のガソリンタンク跡」、略して「与儀タンク」と呼ぶ。
小3の私は宮古島から越してきて一年になるのに未だ、空間としての那覇に戸惑いを感じていたが、原っぱ然とした学校周辺は好きだった。原っぱと云ったがむしろ原野に近かった。まさにそんな有様だった。カエルが跳ね。あちこちの水溜まりには無数のオタマジャクシたちが各々のデビューを待ち構えていた。オジギソウが生えていた。ネムノキの仲間は2、3種類あった。中学生のとき調べて外来種であることが判明した。今やそんな原野っぽさは影をひそめ郊外的なのしれっとした風景が散漫に広がる。
学校のウラに小学生からボイン山と呼ばれる丘陵があり、そのその麓(?)にひと際でかい水溜まりがあった。ウシガエルの「生息地」もその辺だったはずだ。当時の私の感覚では、そのエリアは危険地帯で「入ってはいけない場所」だった。が、友達が釣りをしたい云って聞かないので、不承不承ついて行った。友人の釣り竿は棒っきれに端に釣り糸をつけた原始的ものだったはずだ。それをたらして何を釣るのか?疑問に思っていると、濁った水面の向こうに、魚が見えた。テレピアだ。米軍が持ち込んだ淡水魚だ。今にして思えば、多分あのデカい水溜まり自体が彼等のこしらえて急造の釣り堀だったのかもしれない。テレピアがいたのも、ひきの強い魚で釣りに適しているからだだろう。それが私とテレピアとの最初の出会いだった。それから中2の秋までテレピアと付き合うことになるとは、当時の私が知る由もなかった。
テレピアを釣ろうと、魚影の前へ糸を垂れる友人(彼は針をつけていただろうか?エサは?)。そのとき、ズバーンと水しぶきが上がった。腰を抜かさんばかりに驚いた。水溜まりの主の化け物魚の登場かとキモが潰れた。
水しぶきの後に近所でよく見掛ける乞食がテレピアを手づかみしていた。水溜まりに飛び込んだのだ。あの得たいがしれない何が居るか分かりやしない水溜まりに飛び込むとは!大人の勇気にたまげたと同時に、もはやあの水溜まりが醸し出していたミステリアスな雰囲気は木っ端みじんに吹き飛んだ。