○昨日リブロ池袋に宮台真司北田暁大の対談を聴き行った。
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昨日行った宮台真司北田暁大 対談講演会、「空虚な時代のロマン主義」 の私なりのメモ。

宮台の立ち位置は、まったり革命を提唱してきた自分だが、なんだかある種の寂寥感が最近こみ上げてきます、その寂寥感はベンヤミン的にいうなら、アウラの喪失をアウラが喪失したことによって僕(宮台)は感じているんだけど、20代前半くらいの若者はアウラ(人間、人間観)の喪失をまったく忘却してしまっている。けれど彼らは真面目なので、「この私」にしがみつき、大変生き辛くそうで、また簡単に壊れたりするから困っている、という感じ。
補足的にいえば、宮台的なそれに対する処方箋が、ま、ウソなんだけど「アジア主義」やま、ウソなんだけど「天皇」ってことだと思う。
この「ま、うそなんだけど」っていう部分は、宮台にとって「戦略的な」くらいの意味のようだ。

何が書かれているかが重要で何をどう語るかについて、日本の人文的思想空間はあまりに無頓着な印象を受けると北田。これは、昨日云ったことと正反対こと今日しゃべる的な「不誠実さ」が実は戦略的な語り口なんだという宮台の言い訳に対しての北田なりの理解。また自著の「責任と正義」は僕(北田)もどう語るかという部分を意識的に書いたと宮台への方法論への共感を口にする。
語り口というのはたぶん、エクリチュールな(オトナ語)問題で語り口自体がフレームとして機能していることに自覚的であれ!ということだろう。
北田の宮台に対する違和感は、「アジア主義」を持ち出してくる一点にあるとみていい。ま、ウソなんだけど「アジア主義」っていうのなら、更にひねりを加えて大塚英志風に「戦後民主主義」とでも良いのでは?という北田は問いかけ。宮台の応えは、「それじゃ弱いんだ」ってことだったと思う。
宮台は、イケテル/オワッテルに対しての抜群のマーケティングな嗅覚があることは確かだと思う。「アジア主義」はイケテルが、「戦後民主主義」はオワッテルのは、センスの問題で、彼からすると今更左翼を気取るのは全くアリエナイ、オワッテル態度なのだ。対して、北田はオワッテルものでもちょと磨いてやれば、案外カッコイイことになるかもよ、というスタンス。
学者的には北田が滅茶滅茶カッコ良い。ただ、人生相談のお兄さんとしては、やっぱり宮台なのか。。。