深田恭子主演「下妻物語」を観る。

舞台は茨城の下妻であるけれど、それはかりそめ舞台。ジャスコがあり、ユニクロがあり、ビレッヂヴァンガードがあり、マクドナルドがあり、ロードサイドに紳士服のなんとか山があるような、典型的な日本の地方都市に生きるロリータファション趣味とヤンキー趣味の二人の女子高生の友情の物語。変格ヤンキー映画と考えたが、西部劇の変形ではないかと思った。深田恭子演じる竜ヶ崎桃子は、クリントイーストウッドが演じ続けるナルシステッィクガンマンを彷彿させる。
イーストウッド演じるガンマン(ときには警官)が己の掟に忠実であるために銃をぶっ放すの代わりに、桃子はロリータファッションに身をつつむ。彼女は下妻を嫌悪しないし、東京に絶対的な価値も見いださない。それは彼女の現実世界に対する寛容さではなく、単なる無関心のなせる業である。という部分において、イーストウッドのガンマンと桃子は共通している。決定的に違うのは、自閉の在り方だ。
彼女が行きたい(=生きたかった)のは、フランスのロココ時代で、ロリータファッションは桃子とロココ世界をつなぐ窓であり、透明になれる蓑のようなもの。しかしながら、世間から透明になっているはずの桃子(の世界)にヤンキー趣味のイチゴはどかどかと踏込んでくる。イーストウッドのガンマンなら、その頓着なさは、女であろうとぶん殴られるべきものだ。桃子はどうか?彼女は逆に、頭突きをくらい、蹴飛ばされる。この点において、世の中というものを抽象的に活写することにイーストウッドより深田恭子が数段先をいってる。
「俺の主人は俺だけしかいない。仮に国家が俺にたてつくなら、間違いなく銃で対抗する」風なアメリカ合衆国憲法修正二条こそ、イーストウッドが生涯掛けて演じ続けた英雄だ。人の数だけ己の領分があるなら、そのせめぎ合い、侵犯の数だけ銃が火を噴くのだろう。しかし、殺るか/殺られるかの二者択一で世界を片付けるのに世界はあまりにフクザツ過ぎはしないか。イーストウッドのストイックさ、閉じ方はシンプルだが、カッコ良くは見えない。すくなくとも私は支持しない。ホンダの原チャリで、全く己と相容れないヤンキー趣味の友を想い疾駆するロリータファッションの桃子こそ今日あるべきガンマンの姿だ。