成田龍一著「司馬遼太郎の幕末・明治?『竜馬がゆく』と『坂の上の雲』を読む」(ISBN:402259828X)読み中。〜なぜ日本は無茶の戦争を始め、そして負けたのか〜

司馬遼太郎を「国民作家」と呼ぶことはにためらいがある。が、かつて国民的人気を博し、今日においても彼の作品は高い支持を集めていることは確かだろう。司馬作品の人気の秘密。それは彼の作品を貫く司馬遼太郎歴史観だろう。私見では、司馬的史観とは、なぜ日本は無茶な戦争を始め、敗れたのか?その理由究明のための歴史検証のそれから得られた教訓的理想の提示だった。教訓的理想とは、幕末維新期を起点とした敗戦に至らなかった「もう一つの日本」を意味する。
だから幕末明治指維新を下級武士たちを青春群像風に活写する彼の小説作法は、戦争に負けなかった日本、あるいは世界に対峙していく際に戦争以外の別の外交政策を施したアナザージャパンヒストリーの可能性の照らし出すという側面がある。龍馬や西郷や木戸やらに読者が共感するのは、彼らが切り開いた近代日本の先に現在の日本のあるべき姿(=この国のかたち)を読み取るためだろう。けれど、それら幕末の志士たちは、司馬史観によって脚色された小説世界の住人にすぎない。余話であるが、ほとんどが百姓だったこの国において、いくら面白いといえども、武士階級の活躍ぶりに感情移入して歴史を振り返えるのは、途方もない空しく行為に思えるのは気のせいか。
なるほど、司馬が資料をよくあたっていることは司馬ファンでなくとも評価するところだろう。しかし、如何に資料を読み込んでいようが、束ねる史観に偏向があれば、作品に「瑕疵」があってもおかしくない。司馬史観を絶対化することは、司馬が好んだ合理的な精神とはソリが合わないどころか、司馬が徹底的に嫌ったのがそうした絶対化だったはず。
だから、私は司馬作品の「瑕疵」を探すことにする。司馬史観はあまりに娯楽として消費されすぎる。というか、司馬のアナザージャパンヒストリーは娯楽にもってこいの楽天性がはらんでいると私は睨んでいる。司馬の作品をその史観から意図的脱線逸脱することによって、その偏向と彼が書きえなかった、多数の日本の可能性、あるいは、極東史の可能性を考えてみたい。今、坂本龍馬が生きていたらそうするのではないか。