ソフィア・コッポラ監督「ロスト・イン・トランスレーション」感想再び

スカーレット・ヨハンソン演じる女が、「物書きになりたかったが、自分の文章は最悪で、写真を撮ってみたけど、自分の足を撮るような女の子写真の域を出ないものだった」という意味合いの台詞をホテルのバーで知り合った中年映画俳優(ビル・マーレイ)相手にぶつける。
彼女の夫は、高学歴の自分の妻を「お高くとまっている」と揶揄することがあるらしいが、人生の先達たる中年はそんな肩書の彼女でなく、ダメダメ告白する目の前の彼女に耳を傾けこう言う。「書いた方がよい」と。
お寺を散策したり、生け花を見学したりするのは、彼女にとって日本発見でなく、自分探し。というか、旦那の仕事について東京に来たこと自体が自分探しだった。
自分探し女は、私の周囲で見かけるマスコミで働く女性たちの印象とものすごくダブる。好奇心旺盛でいろいろな出来事にアンテナをのばし、おいしいものを食べ、次に何が「くる」かを友人との会話のなかで探る。歌舞伎、屋久島、レム・コールハース球体関節人形舞城王太郎井上進等など、どんどん刈り込む。が、実際どの焼酎が美味しいのかどうかは分からない。そして、分からない自分を誤魔化すために、永平寺へ行ったりする。新たな「スローフード」を求めて。ダメダメ自分は自分のなかでどんどんでかいくなる。
ガーリーというテイストは、そういうダメダメ自分を飼いならすための自己防御の技術であり、一時避難場所でもあると思う。もしかすると、奈良美智のおでこの大きな少女像は彼女たちの肖像なのかもしれない。
奈良と中年!溺れるガーリーが必死の思いでしがみつくものがたった2つしかないとは思わない。というか、聡明なガーリーはそれが見せかけの救済であることも知っているのだ。
オカマがガーリーと無縁なのはオカマなりの唯物史観のせいだ。茶汲みOLが不在になった今、その域を占拠しているのはオカマなのだから。
女性解放運動が間違っていたかは分からない。が、スカーレット・ヨハンソン演じる女、ガーリーな彼女には帰る場所はない。後戻りすることは出来ない。退路はオカマに塞がれた。だから彼女は前へ歩まなければならない。どこまでも平坦なモダンの一本道を、頬を濡らしながら。