赤瀬川原平山下裕二著「日本美術応援団」
ちくま文庫 ISBN:44800039252
小4のとき、クラスにハーフの子がいた。私の描くディズニーもどきの動物キャラクタ−が彼は大変お気に入りだった。「今日はウサギを描いて」、「じゃ、こんどはビーバー」、「牛、牛描いてよ」ってな感じで彼は私に描いて描いて攻撃をしていた。私もまんざらではなかったので、頼まれれば描いた。中学時代、私は剣道に熱中していた。漫画はあまり描かなくなっていた。彼とは同じ中学だったが、クラスも一緒にならず、部活も違った。廊下ですれ違えば声を交わす程度だった。
いつだったか、彼の家へ友人大勢で押し掛けたときがあった。なんかグループ学習かなんかの打ち合わせで集まったのかもしれない。そのとき彼の学習机の正面に私が小4のとき描いたディズニーもどきを発見し、正直泣きそうになった。
北斎光琳も若仲も、描けば喜んでくれる人がいるから描いていたんだろう。「俺は上手い」という自尊心だけでは生きてゆけない。赤瀬川と山下の二人だけの応援団は、「燕子花図屏風」や「豆腐」の前で好き勝手なことを言って喜んでいる。「応援してないじゃん」とは死んでも言うな。喜ぶことが観ることなのだ。応援団はそれを実践しているのだ。嗚呼、日本美術応援団。カッコイイー。
「うめぇー」、「すげー」、「やべー」。感嘆するのに理屈はいらない。好き嫌いは趣味主観だが、感嘆とは作品を通して作者と向き合うことだ。要するに客観の土俵でメンチ斬ることだ。
木下直之が「美術という見世物」(ISBN:4480084959)で指摘するように、日本における美術とは、明治期に西欧列強をキャッチアップするために突貫工事で仕立てたハリボテだった。今日において会田誠村上隆を好き嫌いでしか語れない日本の美術批評の貧困さは、そのハリボテ的な表層のみを取り繕ったその場しのぎが原因だと解してきた。けれど、ハリボテもそれなりに歳を重ねれば、ゴーストみたいなもんが宿ると考えたほうがなんだか楽しそうだ。