高田崇史著「QED ベイカー街の問題」読了。

QEDシリーズは歴史ミステリーという分野に属する。
私見では、歴史ミステリーは、探偵役がタイムスリップするモノとそうでないのに大別できる。QEDは「しない方」、後者にあたる。

これまでの短歌の解釈に関して、探偵役の桑原崇は当時の政治状況や世界観などを総合した上で,読み解くというスタイルを採っていた。
そのスタイルは、短歌が単独にテクストとしてあるのはなく、時代背景という地を得て初めてテクストが浮上するのだと言いたげだ。
なるほど、短歌はたまたま現代まで残されたテキストの断片にすぎず、それは読み解くものではなく、読み解くための手がかりに過ぎないのかもしれない。

「QED ベイカー街の問題」。
今回は怨念やら地霊は出てこない。シャーロキアンの原典解釈がテーマー。
短歌についてあれほど当時の時代背景に気を配っていた桑原崇だが、今回は一転して、シャーロキアン風の原典至上主義を遊ぶ。

推理術に一貫性のないことは、桑原の瑕疵にはならないだろう。
彼は殺人事件を疾病に喩える。
そして、ウィルスや悪性の腫瘍を体から追い出すようなに、犯人を逮捕することが本当の治療につながらないと考えている。漢方薬的な発想にでいえば、全身の調子を整えてこそ疾病は退散するということだ。
今回の犯人にとって何が全身の調子の回復により有効か、その観点から桑原は、推理スタイルを選択するのだろう。