山崎貴監督「ALWAYS 三丁目の夕日」を観る


先日、友人の奨めで「ALWAYS 三丁目の夕日」を観てきた。
ちょっとハナシが横道にそれるが、田中角栄の秘書だった早坂茂三が数年前になくなったとき、若年寄の友人からメールをもらった。いわく、「昭和も遠くなったね」と。
私は速攻で「新聞屋のクセにそのプライドもなく、政治家の犬に成り下がった男の死に昭和もへったくれもない!」旨の返信をやった。
それに対してまた返信が。いわく「新聞記者だったのかぁー、知らなかったよ」と。
じゃ、お前はいったい何を追慕し昭和が遠くなったね、などとメールをよこしたのか?とメールで詰問しようと思ったがよした。若年寄とはそういう存在一般を指すのだから。
五つ星を満点とした場合、三つ星と半分をつけたい。悪くはないが絶対絶賛なんかするか!的な映画だった。
メインファミリーの鈴木一家大黒柱で鈴木オートの剛文役の堤真一の、マンガでも今日日描かないほどの町工場の親父「熱演」が気になった。ネプチューン原田泰造がコントで親父をやっても、これほどの過剰さは追求しないと思う。おそらく監督の注文に堤が応えた演技だと思う。
この過剰な昭和親父の演出は、道を挟んで真向かいの、駄菓子屋の主兼少年小説作家の茶川竜之介(吉岡秀隆)の線の細さやワケありの飲み屋女将、石崎ヒロミ(小雪)の商売女のしたたかさを際立たせる効果があるのだと思うが、反面鈴木剛文なる役柄の、人格を有した人というよりも昭和テイストなモノを言う小道具という割り切った扱い方がシャクに触った。
繰り返しになるが、お父さんが大黒柱として威張っていた昭和を醸し出すために、堤は過剰に親父を熱演した。その熱演は「威厳のない男親」という平成父親像の反転であり、これもまたイメージの<親父>でしかない。
茶川と淳之助。縁もゆかりもない男と子供の関係がだんだんと親子じみてくる筋は、泣かせはするがそのために過剰な一本気親父を挿入するやり口は、娯楽作品だろうと気に食わない。やっぱり星は2つ半だ。

見終わって下りエレベータに乗り込んだとき、おやっと思った。鼻をすする音とひそひそ声のおしゃべりの媒介に機内に得体の知れない<やさしいさ>の妖気が充満していた。
ヤクザ映画を観た客が、スクリーンの高倉健に同化して館から出て行くというハナシは聞いたことがあるが、映画を観て、「昭和の人」の態になるっていうのはズイブン間が抜けているなと思った。