○新聞錦絵、その向こうに読者を想像してみる

「ニュースの誕生?かわら版と新聞錦絵の情報世界????東京大学コレクション」(ISBN:413020209X)は、東大コレクション展シリーズの第九回「ニュースの誕生」展 のパンフレット的性格を持つもよう。現在版元品切れであるが、内容は下記のURLの記事と同様のようだ。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/dm2k-umdb/publish_db/books/news/index.html

吉見俊哉によるイントロダクション、「凡例 ニュースの誕生を問いなおす」より引用。

ひょっとすると、「新聞=ニュース」概念そのものの歴史的、社会的な厚みが問われることなく、かわら版はしばしば新聞成立以前の「前史」、新聞錦絵は初期新聞の亜種として片づけられてきはしなかったか。あるいはニュースはそれに先立って存在する事件を伝達するという信仰がいまだに疑われず、そうした信仰に基づいて近代的な新聞観、報道観が再確認されてはこなかったか。その結果、「ニュース」の歴史はしばしば今日につながる近代的な媒体としての「新聞」の、またラジオやテレビにおける「報道」の歴史に重ねられてきたのではないだろうか。結局のところ、私たちは「ニュースの誕生」を、あるいはニュースを消費する社会の集合的な知覚と様々な出来事のなかに「新しさ」を見出していく語りのメディアとの入り組んだ関係を、どれだけ問うてきたのだろうか。

おそらく、それが伝達する人物や場所が、まさに読み手の居場所と同じ地べたのつながりにあることの了解が、ニュースにニュース性を付与するということか。
だから、ニュースが扱う人物が名前のとおった財産家や政治家や役者などである理由は、「国民の知る権利」云々より、単にニュースというものの成り立ちに関わっているといえるかもしれない。
朝っぱらから芸能人がどーしたこーしたと捲し立てるワイドショーも、ニュースの成立条件を順当に守っている結果とみるべきなのかも。
たとえば俺は野球観戦も好きだが、野球についての記事を読むことも好き。その意味において、俺という新聞読者は自分が一方的に知り、好感や悪い感情を抱く選手や球団についての記事を喜んだりむかっ腹をたてたりながら読み、捨てている。
我々は、記者が方々を駆けずり回って事件やらを取材した記事を、出来の善し悪しにあるにせよ、ニュースであると信じている。要は、新聞がニュースを配信していると信じているわけだ。
けども、日々この世の中で新たな出来事あり、その情報更新されていると信じる新聞読者の感性のこそ、ニュースの母かもしれない。