○「好きだから〜」がキライ

ほぼ日刊イトイ新聞 留守番番長 「知的財産は、 使うためにある。_山形浩生さんに著作権保護のことを訊きました。」
http://www.1101.com/2003_NEWYEAR/030104_yanase/yamagata.html

聞き手の柳瀬さん(日経BPの編集のひと)相手に、山形が著作権まわりとその概念についてしゃべっている。
レッシグの考え方の背景についてのもの。ハナシのなかで、アルフィ ・コーン 「競争社会をこえて?ノー・コンテストの時代」(法政大学出版局 /山本 啓・真水 康樹訳 ISBN:458800436)のくだりが気になったので引用。

好きだから作ってるっていうほうが、
圧倒的に質のいいものができるというのが、
そのコーンという人の主張です。
それがどこまで実験的に正当化されるのかなど、
細かい突っ込みはあるんだろうけれども、
たぶん、そうなんだろうなぁと。
自分でも、アイデアが浮かんで
一生懸命にものを書いている時には、
「それがおもしろい」
と思って突っ込んでいるわけです。
「これを書きさえすればもうかるぜ!」
となっているわけでもないところがありますよね。

山形のものの見方っていうか、ズバっとショートカットする思考回路には橋本治の影が見え隠れする。
「好きだから質の良いもの、おもしろいのができるんだ」っていう論法は、まさにその典型。
それはロジカルな筋道でなく、読み手の経験に訴えるハナシっ振り。論証よりお互いの共通の経験をふまえ納得を積み上げてく弁論術。
弁舌の渡世人めいた山形のそれ自体に、口をはさむことやめておく。当面の俺の課題は「好きだから、おもしろいのができる」という意見それ自体だから。
レッシグの意見というのは、著作権という概念は、産業育成の政策的見地から施された作者への配慮だという前提に成り立っていると思う。したがって、作り手が著作権にむやみに囚われたり、権利がらみの訴訟で莫大な賠償金がかかったりすることは、かえって創造魂の妨げになり、アメリカのミッキーマウス法(だっけ?)は考えもんだぞってハナシと理解する。
レッシグの意見は納得できる。が、それと「好きだから質の良いもの、おもしろいのができる」とい山形がひっぱり出してきた経験則は、大きな隔たりがあるというか、まったく関係ないことじゃないだろうか。
「好きだからおもしろいのができる」という意見をもっとかみ砕いていえば、作者がおもしろがって作ったものは案外世の中に出してもおもしろかったりするよね、ってことだろう。
ここにやっぱり香具師口上のはったりがある。
作者がおもしろがってつくったものが必ず世の中でウケるかというと、そうでなく、100個つくって、せいぜい5、6個って感じじゃないだろうか?
つまり、好きでつくっても世の中的に喝采されないものは、喝采されたものよりべらぼうな数あるはずだ。
「好きだからおもしろいのができる」は要するに方便でしかない。というか、それが有効なのは自戒の場合で、他人に話せば中小企業のオヤジの朝の訓辞に堕落する。