yasulog2005-01-13

○ド助平たれ!

内田樹のブログ 2005年01月12日、「性的マイノリティと性の言説化」より引用。

『知への意志』の中でフーコーはたしかこう書いていた。

「本質的なことは、権力の行使の場における、性についての言説の増大である。性について語ることを、そしていよいよ多くを語ることを、制度が煽り立てる。権力の諸決定機関の場では、性について人が語るのを執拗に聴こうとし、権力自らが乗りだして来て、性について、はっきり口に出して言われた表現と、際限もなく累積してゆく詳細という形で、執拗に語らせようとするのだ。」

おっぱい星人」とは、女性の乳房について特に性的な関心興味がある男性を指すのだと思う。
酒の席などで、誰かが「おっぱい星人」宣言などしてしまうと興ざめなのは、そのカミングアウトがその場のメンツを「おっぱい星人」である否かでグループ分け談義を誘発させるからだ。
なるほど俺もすくなからず女性の胸部にある、一対の脂肪の房に関心があるのかもしれない。
ただ「おっぱい星人」を名乗り出るほど、俺の性的な欲望は「くっきりとした目鼻立ち」があるわけでもないと思うのだ。
ヤミ鍋とはたぶん一人でするものではない。何を入れたか知っているヤミ鍋はヤミ鍋の体をなさない。けれど逆説的に、己の欲望とはまさに一人ヤミ鍋なのだ。俺は俺というヤミ鍋に実直に向き合い、箸でつつくことで俺を更新するしかないと思う。単なるうぬぼれか。
ま、「おっぱい星人」や「脚フェチ」はシャレや営業トークとして飛び出すのだろうから、そんな自己同一性云々を持ち出すのは野暮の骨頂なのは分かる。けれど同僚との居酒屋でのほろ酔い談義のなかに従順な羊の群化を促す柵が待ちかまている、ことを小便器で用を足しながらふと思うことも全く無益ではないだろう。

再度、タツルの言葉を引用。

もし私たちに性的主体性=性的自由の可能性があるとしたら、それは言説化される以前の「星雲状態のアモルファスな欲動」を渦動している状態のままに維持することにしかないだろう。

世のいおっぱい星人諸君よ、諸君らは羊であることを甘んじて望むのか?それでは真の意味でド助平ではないハズだ。