宮台真司×北田暁大トークセッション「限界の思考〜社会学現代社会〜」 聴講

カルチュラル・スタディーズというカタカナは党派性を帯びるから、カルスタの兄貴と呼ばれるより、文化研究の兄貴と呼ばれたいと宮台が印象的だった。以下私の思ったこと。
私見では日本のカルスタは3つに分けられる。和光と東大と、吉川弘文館だ。最後の吉川弘文館は冗談なので、笑うところだ。
よろしくない感が漂うのは和光系のカルスタで、文化左翼の匂いがする。むろん東大にも文化左翼の匂いはするが、ムーブメントとか生き方とか言い出しそうな危うい感じが和光の方だ。
サブカルチャー神話解体論」を書くにあったて「資本の論理」という言葉を己に禁じたという宮台のエピソードは、そのまま文化左翼が牙城化したがるカルスタへの批判であると考えていい。
またカルスタってなんなの?って素朴な意見に「なんでもありなのさ。コレコレこうですって言い切っちゃうこと、そんな能天気さにボク等はもっと警戒すべきなのさ。だって権力や資本がそういうボク等の「常識」のなかに潜んでいるわけだからね(微笑)。というかラムちゃん司馬遼太郎蟹江敬三のなかにも権力はちゃかかり根をおろしているもんなんだよ。だから、そういう透明化した権力を暴きだし引導を渡すには、既存な思考に囚われちゃダメなわけで(微笑)。ようするに自由じゃなくちゃね。オカリナを吹くように論文を書く、それがボクのスタイル」なんて能書きのなかに文化左翼が守ろうとしている何かあり、その「なんでもありスタイル」に無頓着になりすぎている一面があるというのが北田の批判なわけだ。
だから、この我々生きている世の中を見つめていくうえで、何か邪悪な悪党(資本、アメリカ、ユダヤ等など)を設定して納得するでもなく、「バカの壁」的な多元的主義に陥ることもない、宙ぶらりんをキープオンことが、カルスタの可能性を拓くカギはないか?という北田の問いかけはそのまま彼の方法論表明でもある。
宮台と北田は日本的カルスタに対して似た違和感を持っているようだが、それでもズレがあるなと思ったのは、宮台は社会学を活劇(エンターテイメント)と捉えいる節がある。若い北田はそのアタリはピントきてないのではないか?
余談だが、北田のハナシ方はヒロミに似ている。