鴻上尚史さん・河合香織さん 講演会@池袋リブロ、聴講


聴講層に女性が多かったのが意外だった。第三舞台ファンとか鴻上さんの人望かと思ったが、そうでもなさそうだった。ただ、鴻上さんが対談相手でよかった。伏見憲明バクシーシ山下などの強者だと収拾がつかないかったかもしれない。
質疑応答で、性愛と恋愛がセットになっていっるような現状(幻想)への鬱陶しさを訴えている女性がいたが、河合さんの応答は、いわゆるロマンチックラブイデオロギーというものでソレ自体は幻想であるけども、幻想だからと云ってそれを攻撃する立場は私は採らないというもの。要するに「性は人それぞれ」という、ズラし回答だった(ここでフェミニズムに喧嘩を売っておくことも出来たはずだが、彼女の関心外な態度は意外)。

性の悩みはパソコンの分からなさに相通じるもある気がした。障害者だってセックスしたいという欲求は、オバさんだってインターネットしたいという欲求と似ていると思うのだ。オバさんだってやりたいし、オッサンだってやりたい。キョーミ津々だ。
セックスがコミニュケーションであることに異論はないが、ダイレクトな交わりそのものだけがセックスではない。同様にチャットやオンラインショッピングだけがインターネットではない。だからと云って全てのサイトを巡ることは不可能だ。なんでもそうだが、腹八分目が肝心だ。
インターネットは欲望の反映であると同時に個々人の好奇心の集積でもある。セックスまつわる好奇心を我々はスケベ、スケベ心と呼んでいる。スケベ心と茶化すことで、己の性欲な煩悩を制御している。なぜ制御すべきかといえば、スケベ心はエロを妄想するために強力なエンジンンであるからに他ならない。
私見では大切なのは、セックスではない。もっというとコミュニケーションというのはうざいのだ。セックスはエロを汲み取る源泉ではあるが、エロなインスピレーションのないセックスは「東京大学物語」的な徒労でしかない。
対談式の講演自体は、喰い足りない気もしないではなかったが、当世フェミニズムがこうした性の戸惑いに対処することを放棄しているのではないかとフト思った。
あと、永沢さんのインタビュ−ルポ「AV女優」はたしか「ビデオ・ザ・ワールド」掲載だったはず。エロ雑誌はある意味ノンフィクションライターの野心的な仕事の場であったわけだ。河合さんという女性ライターの登場は、隔世の感と同時に新潮の悪いスケベ心の充分予感させる。