長新太先生が77歳でお亡くなりになったとのこと。
http://d.hatena.ne.jp/nagatani/20050626#p1

入院中との噂を耳にしたのが去年の今頃だったと思います。
私が児童書に長先生の本を平積みしたとき、オバサン社員から「こんなの子供は買わない」と言われたときのショックは未だに夢に見ます。
追悼になってませんが動揺してて気の利いたことも言えません。コレをもって追悼の言葉にします。合掌。

仲正昌樹「なぜ「話」は通じないのか?コミュニケーションの不自由論」を読む
(晶文社 ISBN:4794966709)


あらゆる思想は右、左の二極の間のどこかに位置づけられるという案配に物事はすべて二つの極の対立関係と眺める二項対立な発想が、「話」が食い違い、不毛に終わる元凶でないかという筋立て。
ネット上の巨大掲示板やブログなどでみられる学者、大学人などへの批判は往々にして、この二項対立な発想に由来し、そこまら紡ぎ出される発言は、当人が「自分の頭で考え」た「個性的」なものと思っているのとは反対に紋切り型にはまっているという。
「話」が座礁してしまうのは、なにもネット上に限ったものでなく、著名な文化人にもその傾向はあるとする。
第三章は、論争のプロであるべき学者らのやらかしてしまった具体例を二つ挙げ、その議論が空転してしまった原因を吟味するというもの。
仲正によれば、加藤典洋高橋哲哉の戦争責任に関連する一連の論争における食い違いは、相手を「深読み」しすぎ、怪物化してまった点にあるようだ。ざっくばらんにいってしまうと、加藤・高橋が二項対立の罠に陥っている要因は相手の話を「聴いてない」ということになるようだ。
だからと言って、高橋や加藤がトンマとレッテルを貼るもは意味がない。それこそ、仲正がダメだしする二項対立な発想といえるだろう。
大まかな感想をいえば、コミュニケーションにとって「私」と「あなた」は同じアナのむじなだという直感と、一見違うアナに住んでいるようでも実はアナが繋がっているよ、と共通の基盤を探す根気が大切だということのように思う。
なんとなく、内田の合気道にそくした身体論がふと脳裏を過ぎった。アレは胡散臭いと距離を置きつつ、やっぱり気になる。
内田樹の研究室,「構造と自己組織化」より引用。
http://blog.tatsuru.com/archives/000754.php

だとすると、合気道に限らず、すべての武術の形稽古というのは、この単独で存立する「構造」が未知のファクターや負荷(つまり相手からの加撃や妨害)が加わったことで、いったん解離し、その新たなファクターを組み込んだかたちで自己組織化し、「構造」をヴァージョン・アップする無窮のプロセス、というふうに理解することができるのではないか。
そう考えたのである。
となると、このような稽古のねらいは「不壊の構造」を維持することではなく、むしろ「未知なるファクター」を迎え入れたときに、瞬間的に「それを含んだ新しい構造」を再構築する「柔軟性」と「開放性」の感覚をとぎすますことにあるのではないか。

上記引用は武道に限定した内田の意見であるが、人と対話する際の心構えとして捉えても、妥当のように思う。
そういえば、タツルがもっか「文學界」で連載中の「私家版・ユダヤ文化論」も陰謀説が跋扈することに二項対立思考発想について触れたくだりがある。あれも本になったら読んでみたい。

なぜ「話」は通じないのか?コミュニケーションの不自由論
4794966709仲正 昌樹

晶文社 2005-06
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