◎今どき珍しほどのガチのスパイ組織から見た近代史 − マイケル バー=ゾウハー、ニシム ミシャル 著「モサドファイル」感想。


ポール・バーホーベン監督の「ブラックブック」を思い出した。運命の歯車が狂い、オランダのレジスタンスに味方するユダヤ人女性歌手のはなし。戦後、突如中東に出現したイスラエルって冷戦下における中東の要石的な役割があったかも、とふと思った。
つまり、「ブラックブック」のヒロインは、イスラエルという国の立場を先取り的担っていた、ということ。敵の敵は味方というスタンス、打倒ナチスに関しレジスタンスと彼女は利害が一致していたから。
イスラエル建国を支援した西側の目論見は、ユダヤに恩を売ることで、米ソがにらみ合う冷戦下において、イスラエルを味方につける、中東に親米的拠点を設けること意味していたはず。
本書「モサドファイル」は、イスラエル諜報機関で破壊工作も厭わない。冷戦時代とかじゃない。2000年代に入っても派手に暗殺したり、拉致ったり、寝返らせたり、爆弾仕掛けたりとド派手に活動している模様。英国MI6が冷戦後どんどん対外的アメリカの子分かしたの対し、モサドの連中は、アメリカともつかず離れずのスタンスで不気味なポジションを築いていたっぽい。今どき珍しほどのガチのスパイ組織。最善の手段は確実に任務遂行する手段。ときとして、ド直球で勝負をかける。だから返り血を浴びに浴びまくる。むろん返り血こそが勲章だってスタンスっぽい。
旧約聖書出エジプトとかヨシュアとか。民族に起こった出来事や偉人の逸話の口承文学的総体たったはず。それが時代を経てユダヤの精神的支柱、アイデンティの拠り所となってるわけだ。で、本書のモサドの大活躍(たまの凡ミス)も、ご当地では、古えの苦闘に連なる新たな1ページって感じで受け取られているのかなぁと思うと背中がひんやりするね。

モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)モサド・ファイル――イスラエル最強スパイ列伝 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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◎「悪童日記」、「ふたりの証拠」、「第三の嘘」。アゴタ三部作感想。


◇「悪童日記」。双子の男の子のはなし。彼らが祖母にあずけられ、忍者ばりの自主訓練のすえ強靭な精神力と生きる知恵を手にする過程を描いたもの。タイトルの「悪童日記」はふたりが帳面に記している訓練や見聞きしたものを綴ったものを匂わせる。戦争中、庇護者の祖母はどケチという悪環境を淡々と切り抜けていくふたりはクール。実際悪童なのでなく、肝の太さが悪童なのだ。子供ハードボイルドって趣ある。
だから主人公「ぼくら」のその後が知りたい思い、続編の「ふたりの証拠」、「第三の嘘」と読みついだ。
「ふたりの証拠」はソ連に占領されたハンガリーらしき国の双子の片割れのはなし。「第三の嘘」は包括的な位置どり。つまるところ「悪童日記」、「ふたりの証拠」という前の二作もまた嘘(フィクション)であるというで宣言にほかならない。
フィクショナルな日記というスタイル、悪童の「ぼくら」とはアゴタの実人生の隠れ蓑。つまり、三部作は虚構のフィルターをかけて語られたアゴタの身の上話だ。悪童の「ぼくら」が訓練で克服したはずの胸の痛みは、「ふたりの証拠」以降全開になる。それは作者アゴタ自身抱える望郷の念から噴き出ている。
悪童日記」のふたりが日記を記す上で肝に銘じたこと。主観を排し客観的に綴るというスタイルは、まんまアゴタ文体の特徴でもある。実際アゴタは上手い作家ではない。技巧を駆使し、語彙力とそのコンビネーションによって読む手に心を鷲づかむタイプの作家でない。けれど、「悪童日記」に始まる三部作はとても強い。強く読むものを揺さぶる。ハヤカワ文庫は当然印刷物なのに、アゴタの凄まじい筆圧が熱を帯びてこっちに押し寄せてくる。市彼女の作品のエンジンは、書いても書いても鎮められない己のなかの郷愁と悔恨だ。
「第三の嘘」は二つの意味がある。三作目のフィクションという意味と、双子の片割れの決断が実際とは真逆であるということ。実際アゴタ自身は生きてる。彼女は切腹の機会を永遠に奪われた侍だ。故郷を捨てた自分が生きながらえている。アゴタはそのことを悔い続けている。彼女は、故郷より故郷でない場所を選んだ過去を悔いている。望郷。故郷を渇望する強いおもい、それがアゴタを作家たらしめている。


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○「ダウントン・アビー」シーズン2に夢中。


1910年代の英国の片田舎、時代の波に翻弄される貴族一家、その屋敷を背景に、近代国家に生まれ変わろうとする英国を描こうというのがこのドラマの趣旨だと思う。けどそんな能書きなどなくても普通に楽しめる娯楽作だ。ネットで英国貴族版「渡オニ」と評しているのを見かけたが、たしかにその趣がなくもない。個人的には英国版「細雪」って感じをうけた。
このドラマのヒロインはクローリー家三姉妹の長女メアリー。クローリー家は貴族の家柄。「グランサム伯爵」という爵位ダウントン・アビーという屋敷を持っている。当代はヒロインの父親ロバート。彼には息子がいない。なので、次期継承者の親戚のパトリックになっていた。
ところがパトリックは不慮の事故で死ぬ。すると次期爵位継承者は地位はパトリックから彼の遠縁マシューに移った。マシューは貴族の家系ではない。けど弁護士で小金持ち(ブルジョア)。気取らない、感じのいい人。
メアリーの両親はメアリーをパトリックと結婚させてる予定だった。が、パトリックが死んだため、計画が頓挫した。このため、両親は娘のマシューとの結婚をかすかに期待する。憂慮すべきはメアリーのプライド。
メアリー、実際マシューと会って話しみて意外にも惹かれた。でもメアリーにはマシューに言えないアヤマチがあった。その秘密が彼女をマシューに自分の気持ちを打ち明けるのを勇気にブレーキをかけた。
ツレないメアリーにマシューも脈無しとみて退散する。そんな折、英国がドイツに宣戦布告。第一大戦!!マシューも戦地に。
というのが、シーズン1の流れ。

これから観ようと思う方々へアドバイス。まずクローリー家三姉妹のメアリー、イーディス、シビルの顔をおさえるべし。クローリー家というお屋敷が身分社会の英国のメタファーになっているし、ドラマで描かれる主人公メアリーの苦悩や試練は、世界が様変わりする瞬間にあるための避けられない旧体制の軋みになぞらえている。世界は牧歌的な王国の寄り合いから、弱肉強食な近代国家の集合体に激変していくのだ。
メアリー、彼女は自分が女であるばかりに爵位を継ぐことも出来ず、継承者に嫁ぐしかこの家に残れない境遇に幻滅している。彼女の複雑さは貴族社会の旧弊さを呪いつつも、ブルジョアの台頭にも諸手を挙げての歓迎とはいかない自負心だ。気高さと不器用さ、メアリーに内在する二つの要素が役を演じるミシェル・ドッカリーさんの美貌以上に美しくみせている。
ドラマの結末はメアリーの幸不幸と無関係ではないはず。というか、貴族の女の新たな時代における生き方と提示するものとして決着するだろう。が、そんな深読みなんてせずとも全然へっちゃら。彼女とマシューとの恋がはたして成就するのかどうか、それをハラハラしながら観るのも一興!っていうか、そんなメロドラマ要素にきゅんきゅんしてる自分に自分が一番驚いている。メアリーっ、You、はやく好きだって言っちゃうなさいよッ!!(ヤキモキ)


NHKのホームページにダウントン・アビーの登場人物相関図があった。
プリントアウトすれば、ドラマ観賞のお供に便利かも。
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/downton/chara/print.html

リチャード・リンクレイター監督「6才のボクが、大人になるまで」


◇6才の男の子が大学生になるまでをサラサラと描いたもの。変わっているのは、子役の成長をまんま映画に撮るというアイディア。6才坊やの子役は撮影開始時、リアル6才。その子の18才までの成長過程を映画に活かすという算段。「おしん」を田中裕子に名トンタッチせず小林綾子でやるって感じ。違うか。子ども店長が弟に二代目を譲らず、リアルな大人店長になるまで。。。。これも違うね。まぁ、子役の成長過程がまんま映画のなかの子どもの成長過程だってこと。

ものスゴく出来栄えの良い家族ビデオを見てる感じする。8才くらいになると顔からあどけなさが消え「大きくなったなぁ」と素直に思う。小6くらい髪型にこだわる彼にグッとくる。欲しいモノが即物的にクルマって知ると「ああふつうなアメリカの兄ちゃんなったか、ハリーポッターコスプレの頃が可愛かったな」とちょっとガッカリする。親戚のオジサン気分を堪能できる。

大学生になって寮生活ってことで家を出て行くくだりだ。6才があの子、蛇の骨とか尖った石とか集めて、離婚したおやじに見せて自慢していやあの子がもう大学生か!としみじみしてると、オッサンみたいな髪型の母親が思いがけないことをのたまう。親戚のオジサンは気楽よね、って彼女は言ってる風にも聞こえる。

「6才のボクが、大人になるまで」。原題は「Boyhood」って少年時代とか子どもの頃って意味だよね。その成長がサラサラと流れていくのって彼が文字通り子どもで親に守られているからなんだと思った。「Boyhood」って守られてる時間ってこと。子育て期間。あっという間に大きくなった感じする。一人前の口を利く。その見返りっていうか、達成感の小ささに母親はちょっと血迷ったのかも。って、結局母親側に感情移入ちゃうところが俺も歳だってことだね。

あと、6才の子のお姉さん役の子、リンクレイター監督の実の娘さんらしい。イイ味出してる。

○天道信仰と女の子たちのミューズ − 神田千里「島原の乱」(中公新書)感想。


◇櫻井有吉アブナイ夜会だったか、加藤ミリヤが「誰かのミューズでありたい」という意味のことを喋っていた。
カメラも回すディレクターに「ミューズって何ですか?」と問われ、「女神ってことですね」とミリヤ。「じゃ、最初っから女神って言えばいいのに」って空気出すディレクター。
でもやっぱ「俺、神になりたい」って人前での言える?てはなしだよね。勇気どーたらじゃなくて正気の疑われるよね。ふつう。ミリヤも「だから、あえて「ミューズ」って言ってんだよ、ボケ」的な空気で応戦してた。

実際、取材VTRで加藤ミリヤのライブの模様はスゴかった。ファンの子はほぼ女の子。10代後半から20代くらいかな?。ステージにミリヤでてくるだけで会場のボテージがパンパンに。黄色い声の黄色さがハンパない感じ。大音量で真っ黄っ黄!泣いちゃってる子もワンサカ。たしかにあの空間ではミリヤは神っぽかった。バリバリ信奉の対象。生き仏、御神体。神々しいって感じじゃないけど。

ミリヤの女神的状況について書いたが、ここから本題。神田千里著「島原の乱 」(中公新書)のはなし。宗教っぽい見えるものが単なる作法というか道具で、全然思いがけない考え方、信仰心が行動を突き動かしたりするんだなと思った。で、一見宗教クサくない考え方、概念が今現在も結構幅を利かせたりしてるんじゃないかなって思ったりした。だから島原の乱って歴史的事件を素材にした、日本的信仰のかたちを探る本って感じもする。かなりの長め射程。

この本、島原の乱に至る経緯や、乱の時系列的流れ、幕府側の対応、蜂起側の動向や連中のバックグランド、周辺の大名たちの対処などなど、島原の乱の経緯から終息までをけっこう細かく追ったもの。だけどかなり頁を割いて記述されている。が、それは著者の主張の補足するも。著者の言い分は、島原の乱キリシタンの蜂起でない、というもの。島原の乱キリシタンの蜂起でない。百歩ゆずってそうとしよう。じゃ一揆だいう証拠は何だ?ってことになる。

蜂起民は一度キリストの教えを捨てた連中だった。島原はキリシタン大名有馬晴信の領地だったため、布教に寛容な土地柄だった。が、領主も変わり、教えはご禁制となった。その折、彼らは棄教した。だから、島原の乱は宗教的自由を求めた闘争ではない、ということ。

でも、蜂起した時点は再度入信した信者だったから、信仰に基づく戦争だった可能性は残る。この本は、再度入信する動機が別の信仰に根ざしていた、とみてる。著者によれば、飢饉や不漁は天罰と考えられたと指摘する。領民たちはは、棄教したことが禍を招いたと考えたのだ。天罰を避けるために再入信した。

こうした心の動きは、キリスト教の教えに実直だろうか?たぶんそうでない。そもそも敬虔なキリシタン棄教しない。また飢饉や不漁は試練として受け取るだろう。有り体に言うと連中は天を信じ、天の怒りを鎮める手段として、キリスト教に復教したのだ。その意味で、島原の乱キリシタンの宗教闘争だった可能性は低い。

ところで、島原の乱は江戸期だが、キリシタンの不遇は秀吉の出したバテレン追放令に端をはっする。その折、なぜキリスト教を禁止するのかという宣教師たちの質問に秀吉はこたえ「日本国は私や大名が神としてある。キリシタンの教えとこの国の治世は根本的に相容れない。だから禁止する」という意味のことを言ったとか。秀吉のキリスト教禁教の言い分から、当時の為政者の政教未分離な宗教心が垣間みえる。神的威信があるから戦に勝ち、領国運営も成立しているのだ、という勝ったモンが神的な論法。著者によれば、その背景に天道信仰があったという。

天道とは、人の行いに対し、恩恵与えたりや懲罰をくだす超自然的な力、存在。つまり秀吉の天下統一は、天道にかなった人物による偉業というわけだ。島原の領民たちが飢饉は天罰だと考えた背景にも天道信仰があっただろうと容易に察しがつく。

で、加藤ミリヤのはなしにまた戻る。ライブ終りの出待ちの様子が興味深っかた。ライブで絶叫声援送っていたファンの子達が、出待ちでミリヤが出てきても小さめな歓声。夜なんで、周囲の居住者に配慮した弱めの声援ということらしい。ガハハ。ミリヤファンは、ミューズの評判を損なわぬよう行動を律してるわけね。もしかすると、ミリヤがブログとかでその辺注意事項的にファンに自重をうながしてるかもしれない。ミューズも単に神輿に担がれてるだけじゃないっぽいよね。天道にかなってないとねー。



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○日ハム、赤田将吾任意引退


◇赤田引退。ちょっとショック。三十四歳。年齢を考えると、仕方ないかなと思ったりも。
でも、やはり花形めいた西武時代を考えると、この引退は早すぎる。やっぱり。
彼は期待の若獅子だった。内野、守備の要である二塁というポジションも相まって、将来チームの中心選手として期待された。ポジションが違うけどチームの「顔」という意味で松井稼頭央の後がまの筆頭が彼だった、はず。実際、チームの「顔」になりかけた。が、突然外野にコンバート。たしか送球イップスが原因。外野転向後、フェンスに激突し怪我。リハビリに苦労し次第に影が薄くなった。そして、オリックスにトレード。

オリックス時代の赤田、結構見ていた。スイッチーヒッター。左打席の彼はよくも悪くも印象的だった。内角の糞ボールも思いっきり引っぱる!打法。相手バッテリーも赤田のそのクセを知っているので、近めのボール球で誘っていた。で、案の定ライトにファールフライを打ち上げる的な凡退は珍しくなかった。

岡田監督時代のオリックスは、攻撃が淡白で盗塁や足と打の連携的なことが皆無だった。だから赤田だけを責めるわけにはいかない。が、ボール球に当てる技術があるなら、踏み留まる技術、見送るという選択があってもイイのになと思っていた。今年の赤田、全然見てないけど、たぶん左打席の内角糞ボール引っぱりは「健在」だったんじゃないかなと思う。

来た球を打つ。結局赤田の野球はそういう感じだった。器用なタイプでなかったというとそれまでだけど、もっと
色々あがいてほしかった。年齢との戦いという場合、体力や反射神経の衰えとどう向き合うかって話のなりがちだけど、ふつうにチーム内で未来をある若手との競争でもある。ベテランの味ってざっくりしてるけど、長年野球で飯を喰ってて培った知恵はそれなりにあったはずだ。赤田にも。

左打席の内角引っぱり!に象徴される赤田の打法、あれはカラダの反応だけで打っている感じだった。とにかく淡白にみえた。四番を打つタイプでもなく、代打の切り札でもない。というかトレードでチームを渡り歩くような選手がチーム内競争で生き残っていくのは、若い連中にないモノを武器にしなきゃ無理でしょ。若い奴らに模範になるというか、こんな野球スタイルもあるかと触発するのはベテランの役割ではないか?

悪くても進塁打的な打撃技術ない三十路選手って、監督立場じゃベテランでなく、単なる老害だよね。。。。強い言い方になってしまったけど、赤田将吾よ、おれはオマエが結構好きだったよ。

○弓とオツの交差点。

コスチューム・アーティスト・ひびのこづえさんのブログから。
http://kodue1958.exblog.jp/21213912/
カワイイだけでない珍妙なブローチ、イイ。

こっちは彼女が渋谷でやったワークショップで生徒の子どもが作ったやつかな?
カブトムシ的なやつ!これも滅茶苦茶よい!
http://kodue1958.exblog.jp/21213767/


ふと思い出したのはBSの番組。柳家花と岡田斗司夫が喋っていた。江戸の粋とかオツとか美意識のはなし。岡田斗司夫が言うには、
オツは本来甲乙丙の「乙」で、2番の意味。それが「風変わり」とか「珍妙な」って意味になったのは、天下人、太閤秀吉のせいとか。
要するに、一等の甲は、天下人の秀吉様の献上されるモノなので、下々の者にとっては乙が一等となり、珍妙な奇天烈を愛でる美的センスに発展したってコト。オツ、俺的にいうと頓知だよね。ただただ珍妙を追求するのは煮詰まってちゃうだけだし。煮詰まりと破壊の二つの戦いが珍妙だったらイイのかも。

そんなこと考えていたら、昨日テレビでやってたドキュイメンタリーの弓道八段の人の言葉とつながった。
「我々は空間を表現している。的にあてるなんて二の次」。

観たのは、NHKの「アスリートの魂」って番組の「終わりなき探究 弓道 増渕敦人」の回。
増渕さんの弓道は終なき探求というか、泥沼にはまり込んだ印象がある。彼はかつて29歳という若さで天皇杯優勝した弓道界のホープだった。が翌年は全部的を中てながら惨敗した。
何故か?

「たんなる的あて」と審判団からその弓道姿勢をを否定されとか。
的中率98.8パーセントの的中率。当時「的中の怪物」と云われた弓道界の若きプリンスは、絶頂期のど真ん中で「オマエの弓道はスポーツ臭い!」とダメ出しを食らったのだ。

以来増渕さんは弓道は混迷期に入る。完全に自信喪失状態。20年間!!県大会では優勝するだけど、天皇杯という舞台だと重圧がスゴいのか、全然ダメだめだったみたい。今年51歳の増渕さん、一念発起し天皇杯を見据えあれこれやる。iPadでフォームチェックし若手の意見を聴いたり、筋トレしたり、地域の大会に出たり。色々試行錯誤。

で、最後の最後の岡崎範士の道場を訪れる。迷える弓道の子羊・増渕さんにとって、頼みの綱というあんばい。 そして岡崎範士の件の言葉。
「我々は空間を表現している。的にあてるなんて二の次」。

空間を表現している!と言い切る範士の言葉は強かった。困惑顔の増渕さんともどかし気に声振り絞る岡崎範士が印象的だった。

写真が発明されて、絵描きはリアルを追求すことに意味がなくなった。弓も銃器の発明で、武器としての存在意義は希薄になった。それが弓道のはじまりだったかも。だとすれば、真顔で的中目指してもしょうがないよね。フザケロってことじゃないよ、煮詰まりと破壊がなくてはならんってこと。

結局、今回も増渕さんは天皇杯で優勝できなかった。というか決勝にさえ進めなかった。けど最後の開き直ったせいか、矢は的中した。あれが次の増渕さんにつながるとイイと思う。といっても、増渕さんの「次」って天皇杯とかじゃないかも。

増渕さんは30歳のとき、自分に弓道を否定されたことがトラウマになっている。雪辱したいって気持ちは重々分かる。けど、もう51歳だぜ。あと人生折り返し過ぎてる。人の評価とかそんなこと、もーイイんじゃないかな?

まぁおれは増渕さんじゃないから簡単に言えるんだろうけど。でもそんなふうに考えてみるのも一興っていうかさ、オツじゃない?